第75話 詩人と記憶のスプーン
朝の光がカウンターの縁をなぞっていた。
私――マリエルは、いつものように棚の整理をしていた。
カップ、皿、豆袋。
そして、一番奥の引き出し。
誰も開けたことのない、古びた木の取っ手。
指をかけて引くと、
からん、と音を立てて何かが転がり出た。
それは――一本の銀のスプーン。
◇ ◇ ◇
表面には小さな傷がいくつも刻まれていた。
柄の部分に、かすれた刻印。
“C・F”
――カフェ・フレーム。
この店の名が、古い字体で刻まれている。
「……ずっと昔から、この店にあったんだ」
私はスプーンを手のひらに乗せた。
冷たい。
けれど、ほんの少しだけ温もりが混じっていた。
◇ ◇ ◇
次の瞬間、
視界がふっと揺らいだ。
木の香り、ミルクの甘い匂い。
そして――“誰か”の笑い声。
目を閉じると、
カフェの中に知らない光景が広がっていた。
棚の並びは同じ。
でも、壁には蔦が這っていて、
カウンターの向こうには、今よりも少し若い女性が立っていた。
「……あなたは?」
女性が微笑む。
金色の髪。柔らかな眼差し。
その姿に、私は見覚えがあった。
“おかえり、マリエル。”
――え?
◇ ◇ ◇
その声が、胸の奥で反響した。
まるで自分自身の記憶を呼び起こすように。
彼女は続ける。
「あなたがここに立ってくれる日を、
ずっと待っていたの」
「……わたしを?」
「そう。あなたは“二度目の詩人”。
この店の灯りを継ぐ人よ」
◇ ◇ ◇
スプーンの銀面が淡く光る。
その光の中で、彼女――“初代詩人”の姿が揺らいだ。
“詩は、記憶を繋ぐ器。”
“忘れてもいい。ただ、手放さないで。”
声が遠ざかる。
光が霧のように薄れていく。
◇ ◇ ◇
「……マリエル?」
気づくと、ポエールが心配そうに覗き込んでいた。
スプーンを握ったまま、私はカウンターに座り込んでいたらしい。
「大丈夫です。ただ、少し……昔の夢を」
「夢?」
「いえ、記憶、かもしれません」
私はスプーンを見つめた。
その表面に、ほんの一瞬――
“初代詩人”の笑顔が映った気がした。
◇ ◇ ◇
マーリンが静かに入ってきて、
私の手の中のスプーンを覗き込んだ。
「……それ、古い魔具ね」
「魔具?」
「“感情を記録する器”。
持ち主の想いが強ければ、時間さえ越えて残る」
「じゃあ……このスプーンの中に、
前の詩人の気持ちが?」
「そう。
たぶん、あなたはそれを“継いだ”のよ」
◇ ◇ ◇
私は小さく息を吐き、
ノートを開いた。
ペン先が震える。
でも、そこから流れる言葉は自然だった。
“器は手を渡り、
灯りは心を渡る。
私は誰かの続きを淹れている。”
インクの粒が光に溶け、
スプーンの表面に反射した。
そこにはもう、
かすかな詩の刻印が浮かんでいた。
“はじめての一杯を、
あなたに。”
◇ ◇ ◇
私は微笑んで、
スプーンをカップの中にそっと沈めた。
銀が音を立て、
珈琲の表面に淡い輪を描く。
まるで時間そのものが、
静かに溶けていくようだった。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第76話「詩人と声の残響」
「スプーンに刻まれた“初代詩人”の声が、夜のカフェで再び響く。
マリエルは“言葉の記憶”と向き合うことになる――。」




