第73話 詩人と紙の舟
朝の光が、カウンターに射していた。
昨日の夜の出来事が夢だったかのように、
店の中は穏やかだった。
けれど、カウンターの上には――一枚の紙切れ。
それは折りたたまれた小さな舟の形をしていた。
舟の帆に見立てられた三角形の部分に、
インクの滲む文字が書かれている。
“ひとつの詩が沈んでも、
波は、言葉を運んでゆく。”
――影の読者の筆跡だ。
◇ ◇ ◇
私は舟をそっと手に取った。
紙の感触が、まるで呼吸しているみたいだった。
「詩人殿、それは……?」
ポエールがカウンター越しに身を乗り出す。
「昨日の“影の読者”が残していったんです」
「ふむ、戦士の置き土産は剣であるが、
詩人の置き土産は言葉か」
「戦士の剣より、ずっと静かですけどね」
グラスが“ぷにぃ”と鳴いて、舟の下をくるりと回った。
◇ ◇ ◇
マーリンが花瓶を片手に現れる。
「おはよう、マリエル。……なにそれ?」
「昨日の彼の詩です。折り紙の舟みたいにしてあって」
「詩を“形にする”って、いいわね。
言葉がそのまま漂っていくみたい」
彼女は腕を組み、
ランプの灯を映した舟をじっと見つめた。
「詩は水のようなものね。
掬えば消えるけど、流れは残る」
「……うん、そんな気がします」
◇ ◇ ◇
私は紙舟を小さなガラス瓶に浮かべてみた。
底に少しだけ水を張り、
舟がゆらゆらと揺れるように。
光が反射して、
その揺れが店中に波紋を広げていく。
その瞬間――
マーリンが詠唱するでもなく、
ぽつりと呟いた。
“光が沈む場所に、詩は咲く。”
言葉が空気に乗って、
カップの湯気と混ざって消えていった。
◇ ◇ ◇
私はノートを開き、舟の詩の隣に新しい一行を書いた。
“書くことは流すこと。
読まれることは、届くこと。”
昨日の影が残した言葉が、
私の詩の続きを紡いでくれている気がした。
◇ ◇ ◇
昼前。
店にオグリが顔を出した。
今日も立派な馬面に、例の競馬新聞。
「やあ詩人嬢。今日の運勢、風向き良好だぞ」
「おはようございます。今日の風は詩向きですか?」
「“追い風一杯、詩の帆張れ”ってな」
私は笑いながら、ガラス瓶の舟を示した。
「詩の帆なら、もう張ってあります」
オグリは目を細めて言った。
「いい舟だな。沈まず、進まず、ただ在る」
「馬なのに舟を褒めるんですね」
「船も走るものだからな」
――なるほど、妙に説得力があった。
◇ ◇ ◇
夕暮れが近づく。
ランプの光がまた小さく揺れ、
ガラス瓶の水面が金色に染まった。
私は紙舟を見つめながら、
そっと呟いた。
“詩は流れても、想いは沈まない。”
言葉が水に落ちるように、
音もなく心に染みていく。
◇ ◇ ◇
その夜、閉店の後。
舟を瓶から出して乾かそうとした時、
舟の裏に、もう一行、文字が浮かび上がっていた。
“詩人へ。
ありがとう。
あなたの灯りで、
私の波は動き出した。”
インクが光に溶け、
やがて風のように消えていった。
◇ ◇ ◇
私はノートを閉じ、
ランプの火をひとつ、吹き消した。
そのあとに残った静けさが、
まるで詩そのもののように優しかった。
“詩は届いた。
だから、また書ける。”
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第74話「詩人と途切れた手紙」
「翌朝、ポストに届いた一通の封筒。
宛名はないが、そこには“途中で止まった詩”が綴られていた――。」




