第72話 詩人と影の読者
夜が、またやってきた。
昨日、すべての灯が消えたあの夜から一日。
カフェ<カオスフレーム>は、
まるで何事もなかったかのように穏やかだった。
だけど私は知っている。
詩は、一度“消えた”のだ。
そして――また灯った。
◇ ◇ ◇
カウンターに並ぶランプの火を見つめながら、
私はカップを磨いていた。
指先に伝わる温もりが、
まるで言葉の余韻みたいに感じられる。
「詩人殿、昨夜の出来事……夢ではなかったのだな?」
ポエールが神妙な顔で尋ねてくる。
「夢じゃありません。詩そのものが消えかけたんです」
「詩が、消える……? そんなことが起こり得るのか」
「言葉を忘れる人が増えたら、きっとそうなるのかも」
グラスが“ぷにぃ”と鳴き、ポエールの鎧を叩いた。
「おお、グラスよ、安心せい。詩人殿がいる限り我らは平和だ!」
「縁起でもないこと言わないでください」
◇ ◇ ◇
マーリンが奥から顔を出した。
「昨夜、空が一瞬暗くなったわ。
街全体の灯りが息を止めたみたいだった」
「やっぱり、あれはこの店だけじゃなかったんですね」
「ええ。……でも、不思議なことに、
再び光が戻ったとき、
空気が少し澄んでいたの」
「詩が、世界を浄化したのかも」
「ふふ、ロマンチックな解釈ね」
◇ ◇ ◇
ベルが鳴った。
夜更けにしては珍しい来客。
扉を開けると――そこに立っていたのは、
あの“影”だった。
いや、正確には違う。
昨夜のような黒煙の塊ではない。
人の形をして、
その目だけが、深い闇の色をしていた。
「……いらっしゃいませ」
影は静かに頷き、
ゆっくりと店の中へ入ってきた。
◇ ◇ ◇
カウンターに座ると、
彼は低く掠れた声で言った。
「昨日……詩を聴いた」
その声は、まるで割れたガラスが再び繋がるような音だった。
「あなた……“読者”なのね?」
「かつては、“詩人”だった」
空気が、一瞬止まった。
◇ ◇ ◇
彼――影の読者は続けた。
「言葉を失った。
詩を書くことが恐ろしくなって、
やがて、詩を読むことさえやめた」
「だから、影になったんですね」
「そうだ。
光を求めて彷徨い……この店に辿り着いた」
マーリンが呟いた。
「詩を失った詩人……。
それって、つまり自分を失った人間ね」
◇ ◇ ◇
私はカップを取り、
豆を挽き始めた。
「詩を失った人には、温かい苦味がいいですよ」
「……そんな処方があるのか?」
「カフェ<カオスフレーム>では、
詩もコーヒーも心の薬ですから」
彼は小さく笑った。
その笑みが、ほんの少し人間らしく見えた。
◇ ◇ ◇
ドリップの音が静かなリズムを刻む。
ぽとり、ぽとり。
その音が、まるで新しい詩を生むようだった。
「詩はね、
書くものでも、読むものでもなくて――」
私は言葉を選びながら続けた。
「“呼吸するもの”なんです」
「呼吸……?」
「はい。
誰かが書いた詩を読むと、
自分の中で言葉が息をする。
だから、消えないんですよ」
◇ ◇ ◇
カップを差し出すと、
彼は両手でそれを受け取った。
その手はまだ少し透けていたが、
光の中で輪郭を取り戻していく。
一口飲んだ瞬間――
その胸の奥から、微かな光が滲んだ。
“……言葉が、戻ってくる。”
彼はそう呟いた。
そして、静かに涙を零した。
◇ ◇ ◇
「詩人殿、あの者の中に“火”が戻ったぞ!」
「ええ。
灯りは他人からもらうものじゃなく、
思い出すものなんです」
私はノートを開き、
その光景を書き留めた。
“言葉を失った人が、
再び呼吸を取り戻すとき、
世界の輪郭が柔らかくなる。”
◇ ◇ ◇
影の読者は立ち上がり、
深く一礼した。
「ありがとう。
もう一度、“詩を書ける気がする”」
「それは良かったです」
「次は、あなたに読んでもらいたい」
そう言って、彼は静かに去っていった。
ドアベルが鳴り、外の風が少しだけ明るくなった気がした。
◇ ◇ ◇
私はカウンターに肘をつき、
まだ暖かいカップを見つめた。
「詩って、不思議ですよね。
消えたと思っても、必ず誰かの中で灯ってる」
マーリンが微笑んで頷く。
「それが“詩人の連鎖”ってやつね」
「ええ。……きっと、まだ続いていくんです」
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第73話「詩人と紙の舟」
「翌朝、カウンターの上に一枚の紙切れが残されていた。
それは、影の読者が書いた“最初の詩”だった――。」




