第71話 詩人と失われた灯り
――その夜。
カフェ<カオスフレーム>の中は、
いつもより静かだった。
マーリンもポエールも帰り、
“沈黙の読者”も今日は現れなかった。
私はひとり、閉店後のカウンターで帳簿をつけていた。
ランプの灯りが、ゆらゆらと揺れている。
その光を見ていると、今日の旅人の言葉が思い出される。
“まだ歩ける。”
――あの灯り、今もどこかで揺れているだろうか。
◇ ◇ ◇
ページを閉じようとしたその瞬間、
ふ、と光が消えた。
「……え?」
カフェのランプが、一斉に沈黙した。
蝋燭も、厨房の灯も、窓の外の街灯までも。
世界が一瞬で“闇”に包まれた。
音すら、止まった気がした。
◇ ◇ ◇
私は思わず立ち上がった。
暗闇の中、手探りでカウンターを進む。
「……停電?」
いや、違う。
電気などないこの世界で、
火が消えること自体が“異常”だった。
まるで、誰かが“言葉”を奪ったような――そんな感覚。
◇ ◇ ◇
その時、外から風の音がした。
扉の隙間から、黒い煙のようなものが流れ込んでくる。
煙はゆっくりと形を変え、
人の影のようになった。
「……誰?」
答えはなかった。
影はただ、ゆらゆらと揺れている。
その存在自体が、“無音の詩”みたいだった。
◇ ◇ ◇
私はノートを開いた。
けれど――文字が、消えていた。
すべてのページが白紙。
昨日までの詩が、跡形もなく消えている。
胸の奥がひやりと冷たくなる。
「まさか……“詩そのもの”が……?」
◇ ◇ ◇
影が近づく。
その動きに合わせて、
残っていた蝋燭の火が小さく震え、
そして、ひとつ、またひとつと消えていく。
最後のひとつが消える時、
私は思わず叫んだ。
「――消えないで!」
闇の中で、自分の声が反響する。
まるで詩の残響のように。
◇ ◇ ◇
その瞬間――カウンターの上のカップが光った。
昨日淹れた“灯りのブレンド”の残り。
冷めきっていたはずの液面が、
ふっと金色に輝き始めた。
「……まだ、ここにある」
私は手を伸ばし、
そのカップを抱きしめるように握った。
◇ ◇ ◇
光は小さく脈打っている。
まるで心臓の鼓動のように。
その光を見つめながら、
私はそっと詩を口にした。
“灯りは詩だ。
書かれていなくても、
誰かの心で生きている。”
言葉が声になるたびに、
光が少しずつ強くなっていく。
◇ ◇ ◇
黒い影が、立ち止まった。
その中から、微かに声が漏れた。
“……読めない……詩が、消えた……”
それは苦しむような、迷うような声だった。
私は小さく息をのむ。
「あなた……“詩を失った人”なのね」
影は震え、輪郭がほどけていく。
泣いているようにも、微笑んでいるようにも見えた。
◇ ◇ ◇
「大丈夫。
詩は消えても、言葉は生まれ直す」
私はノートを開き、震える手でペンを走らせた。
“闇があるなら、
そこに詩を灯そう。
光は書く人の中にある。”
最後の一行を書き終えると同時に、
ランプの火が――再び、灯った。
◇ ◇ ◇
影は静かに消えていった。
風だけが残り、
その風がページを優しく閉じた。
カフェに光が戻る。
カウンターの上のカップは、
小さく湯気を立てていた。
「……やっぱり、詩って強いな」
私は笑いながら、
カップの残りを静かに口にした。
冷めたはずの味が、
なぜか温かかった。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第72話「詩人と影の読者」
「“詩を失った影”は完全に消えたわけではなかった。
マリエルの書く新しい詩を求めて、再び彼女の前に現れる――。」




