第70話 詩人と灯るカップ
夕方。
カフェ<カオスフレーム>の窓から射し込む光は、
朝とは違うやわらかさを持っていた。
昼の喧噪が静まり、
夜の静けさがまだ遠くにいる時間。
この“間”が、私は好きだった。
それは、詩が灯り始める時間だから。
◇ ◇ ◇
カウンターの上に、
昼間もらったカモミールの花がまだ咲いている。
ほんの少し傾きながらも、
その白さが光を受けて揺れていた。
「詩人殿、今日の空は美しいな」
ポエールが窓を見上げて言った。
「まるで世界そのものが“黄金のブレンド”を淹れておるようだ」
「言葉のセンスが磨かれてきましたね」
「我も詩人殿の影響を受けたのだ!」
「……それは光栄です」
グラスが“ぷにぃ”と鳴き、
窓辺の光を跳ね返した。
◇ ◇ ◇
マーリンが、筋肉ローブを引き締めながら入ってきた。
「ふぅ、日が沈む前の筋トレは最高ね」
「……夕方にトレーニングって、もう儀式ですよね」
「儀式と詩は似たようなものよ。繰り返すことで形になる」
彼女は笑って、
カモミールの花をそっと撫でた。
「この花、昨日より元気ね」
「ええ、“沈黙の読者”がくれたんです」
「ふふ、静かな言葉ほど長持ちするのね」
◇ ◇ ◇
私はカップを手に取り、
新しいブレンドを淹れ始めた。
今日の豆は、少し深煎り。
火を少し長く入れて、苦みの奥に甘みを残す。
ぽとり、ぽとりと落ちる音が、
夕暮れの光に合わせてゆっくりと響く。
「詩人殿、今日の詩はどんな味だ?」
「……“灯りの味”です」
私は答えた。
◇ ◇ ◇
湯気が立ちのぼる。
その煙のような流れの中に、
金色の粒が揺れているように見えた。
世界の光が、
珈琲の表面に溶け込んでいる。
“日が沈むたび、
世界は灯りをひとつ失う。
けれど、誰かの心に火がつく。”
自然と、その言葉が浮かんだ。
◇ ◇ ◇
カップをカウンターに置くと、
ドアベルが鳴った。
入ってきたのは――見知らぬ青年だった。
旅人のような服装で、
手には小さなランプを持っている。
「……ようこそ。ランプ、素敵ですね」
「ありがとうございます。
少し前まで灯らなかったんですけど……
このカフェの前を通ったら、光り出して」
「それは――奇遇ですね」
◇ ◇ ◇
青年は席に座り、
ランプをそっとテーブルに置いた。
中で灯る小さな炎は、
まるで詩の一行みたいに揺れている。
「ブレンドをください。
“灯りの味”のやつを」
その言葉に、私は笑った。
――まだ出してもいないメニュー名なのに。
「かしこまりました」
◇ ◇ ◇
淹れたてのカップを差し出すと、
青年はゆっくりと香りを吸い込んだ。
「……不思議な味ですね。
温かいけど、少し泣きたくなる」
「それが“灯り”ですよ」
私は微笑んで答える。
「光って、目を照らすだけじゃなくて、
心の影も浮かび上がらせるものですから」
◇ ◇ ◇
青年は静かに頷き、
ランプの炎を見つめた。
その炎が少しだけ揺れ、
ふと、まるで文字の形に見えた。
“まだ歩ける。”
私は小さく息をのんだ。
――この人は、灯りを探して旅してきたのだ。
◇ ◇ ◇
「詩人殿、あの炎……文字になっておる!」
「詩が、灯ってるんです」
マーリンが微笑む。
「いい詩ね。
“まだ歩ける”――それだけで、人は強くなれるものよ」
青年は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。
この灯りを、また旅に連れていきます」
◇ ◇ ◇
彼が去ったあと、
カフェの中に残ったのは、
金色の光と、温かい香り。
私はカップを見つめて呟いた。
“詩は火だ。
燃やすためじゃなく、
暗闇で隣を照らすために。”
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第71話「詩人と失われた灯り」
「ある晩、カフェの灯がふっと消える。
それは、世界から“言葉の火”が奪われた兆しだった――。」




