第69話 詩人と夜明けのドリップ
夜が、明けた。
雨上がりの空はまだ薄い灰色で、
街全体が“息を潜めたままの楽譜”みたいだった。
静かだった。
鳥の声も、風の音も、
まだどこかで寝息を立てている。
私は、ひとり。
誰よりも早くカフェ<カオスフレーム>の鍵を開けた。
◇ ◇ ◇
中は、昨日の雨の香りがまだ残っていた。
床に光の粒が散らばるように、窓の水滴が反射している。
私はカウンターの上に手を置き、
深呼吸をひとつ。
空気が新しいページみたいに透き通っていた。
「……今日の詩は、きっと静かな味になる」
そう呟いて、ケトルに水を注ぐ。
◇ ◇ ◇
湯を沸かす音。
金属が温まっていく間に、
私は豆を手のひらで転がした。
昨日の雨のせいか、
豆の香りがいつもより深い。
その香りは――まるで湿った記憶のようだった。
ミルを回す。
ざらり、ざらりと音が鳴る。
粉になっていくその過程さえ、
詩の一節のように思えた。
◇ ◇ ◇
お湯を細く落とす。
ぽとり、ぽとりとリズムを刻みながら、
朝の静けさに合わせるように息を整える。
ドリップの滴が落ちるたび、
窓の外の光が少しずつ明るくなっていく。
世界が、“抽出”されていくようだった。
“夜と朝のあいだ、
言葉はまだ眠っている。
でも、香りだけが目を覚ます。”
◇ ◇ ◇
カップから立ちのぼる湯気が、
朝の光と混ざって淡い金色になる。
その色が、まるで“夜明けそのもの”に見えた。
私は静かにカップを口元へ。
苦みよりもやさしく、
酸味よりも穏やかな、
そんな味だった。
「……おはよう」
誰にともなく、そう呟いた。
◇ ◇ ◇
その瞬間――ベルが鳴った。
まだ開店時間じゃない。
扉の向こうには、
“沈黙の読者”が立っていた。
今日も無言のまま。
けれど、いつもと違う。
手に小さな花を一輪、握っていた。
「……それは?」
読者は言葉を発しない。
ただ花を差し出す。
白い小さな花――カモミールだった。
私は微笑んで、それを受け取る。
「ありがとう。朝にぴったりですね」
◇ ◇ ◇
花をカウンターの上に飾ると、
店の空気がほんの少しだけやわらいだ。
“沈黙の読者”は、私が淹れたばかりのカップを指差した。
――まるで「その詩を分けてほしい」と言うように。
「……いいですよ」
私は二つ目のカップを用意して、
同じ朝の香りをもう一杯、注いだ。
二人で黙って、同じ味を飲む。
それだけで、言葉はいらなかった。
◇ ◇ ◇
カップの底には、
反射する光が小さな文字になって浮かんでいた。
“夜明けは、世界が息を合わせる瞬間。”
私はその言葉を、そっとノートに書き写した。
ペン先がまだ温かい。
朝が、確かに“始まった”と感じた。
◇ ◇ ◇
“沈黙の読者”は立ち上がり、
カモミールの花をもう一度見て微笑んだ。
そして、扉の向こうへ消えていった。
残されたのは――香りと静寂。
でも、私はそれを“詩”と呼んだ。
“言葉がなくても、
朝は始まる。
それでいい。”
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第70話「詩人と灯るカップ」
「夜明けのあとに、ふと訪れる夕暮れ。
静かな光の中で、マリエルは“詩の灯”を見つける。
それは、誰かの心をもう一度照らす一杯だった――。」




