第67話 詩人と沈黙の読者
カフェ<カオスフレーム>に戻ると、
店の空気がほんの少しだけ違っていた。
風の図書館で感じた“言葉の残響”が、
まだカウンターの木目に染みついているようだった。
――詩が、ここにも息をしている。
◇ ◇ ◇
ポエールが真っ先に駆け寄ってきた。
「詩人殿! 無事の帰還、見事である!」
「ただ図書館に行ってきただけですよ……」
「図書館とは知の戦場!」
「……そういうことにしておきます」
グラスが“ぷにぃ”と鳴いた。
彼の言葉のほうが、よほど理屈が通っている気がする。
マーリンは腕を組んで、私の顔を覗き込む。
「顔色が変わったわね。詩を聴いたのね?」
「ええ……“まだ生まれていない詩”の声を」
「ふうん。世界の声、か」
彼女の笑みはいつも通りだが、
少しだけ寂しげにも見えた。
◇ ◇ ◇
そんな空気を割るように、
ベルが鳴った。
扉が開く。
そこに立っていたのは――
全身を灰色のマントで包んだ人物。
顔はフードに隠れて見えない。
けれど、どこか懐かしい気配を感じた。
「……いらっしゃいませ」
返事はなかった。
客はただ、小さく頷いて、
静かに一番奥の席に腰を下ろした。
◇ ◇ ◇
「ご注文を伺っても……?」
沈黙。
ただ、指先がテーブルを一度、叩いた。
トン、と。
その音が、不思議と“言葉”のように聞こえた。
私は頷いて、カップを取り出した。
「ブレンドですね」
何も言われていないのに、
手が自然と動いていた。
◇ ◇ ◇
豆を挽く音が、
沈黙の中に小さな詩を刻んでいく。
お湯を落とす。
その音が、まるで呼吸みたいに穏やかだった。
カップに注ぎ終えると、
店内の空気がふっと柔らかくなる。
「どうぞ」
客は静かにカップを受け取り、
口元へ運んだ。
一口、飲む。
そして――微笑んだ。
◇ ◇ ◇
その瞬間、私は悟った。
この人は“読者”だ。
詩を書かない。
詩を語らない。
ただ、詩を“受け取る”だけの人。
だけど、だからこそ、
彼の沈黙の中には“すべての詩”があった。
◇ ◇ ◇
「詩人殿、あの者は……?」
ポエールが囁く。
「分かりません。
でも――私の詩を読んでくれている気がします」
マーリンがうなずいた。
「読むだけの人がいるから、
詩は消えないのよ」
◇ ◇ ◇
客はカップを置いた。
そして、ナプキンを一枚取り、
そこにゆっくりと指を滑らせた。
何も書かれていない。
ただ、熱でわずかに文字が浮かぶ。
“聴いた。”
それだけ。
けれど、それで充分だった。
◇ ◇ ◇
「また、来てくださいね」
私がそう言うと、
客は無言のまま立ち上がり、
フードの奥で静かに頷いた。
そして、ドアの外へ――
風のように消えていった。
◇ ◇ ◇
残されたカップの底には、
淡い光の粒が沈んでいた。
まるで、“読まれた詩”が形を成したように。
“詩は、聴く人がいて初めて完成する。”
私はその言葉を胸に刻みながら、
カップをそっと磨いた。
◇ ◇ ◇
マーリンがぽつりと言う。
「ねえ、マリエル。
沈黙って、詩の最初か、それとも最後かしら?」
私は笑った。
「両方ですよ。
――だって、詩は始まりも終わりも“呼吸”ですから。」
ポエールが満足げに頷いた。
「ふむ、良い詩だ! 沈黙の中に音がある!」
グラスが“ぷにぃ”と鳴いた。
◇ ◇ ◇
その夜、ノートを開くと、
白紙のページの上に、一行だけ文字が浮かんでいた。
“詩人と読者の間にある沈黙、
それこそが世界の韻律。”
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第68話「詩人と雨のメトロノーム」
「翌日、カフェを包む雨音が、一定のリズムを刻む。
それはまるで“世界が詩を書く音”だった――。」




