第66話 詩人と閉じた本棚
風の図書館は、静寂の底で呼吸をしていた。
ページの擦れる音も、風の囁きも、どこか遠い。
私は司書の案内で、さらに奥の部屋へと進んでいた。
「この先が、“閉じた本棚”よ」
司書の声は、まるで紙の音みたいに柔らかい。
「ここにはまだ“誰にも読まれていない詩”が眠っているの」
◇ ◇ ◇
扉の前に立つと、
風が一瞬止んだ。
重厚な木の扉。
鍵穴も取っ手もない。
けれど、近づくと、扉の表面にインクの模様が浮かび上がった。
“読まれざる詩は、開かれぬ本。”
「……これ、どうやって開けるんですか?」
「あなたの“声”でよ」
「声?」
司書は微笑んだ。
「書く詩人がいれば、語る詩人もいる。
あなたが“言葉を信じる”なら、この扉は開くわ」
◇ ◇ ◇
私は一歩、前へ出た。
心臓の鼓動が速くなる。
喉が乾く。
けれど、不思議と怖くはなかった。
ゆっくりと口を開く。
「詩は――息だ。
書くことで生まれ、
呼ぶことで、生きる。」
その瞬間、扉が小さく震えた。
模様が光に変わり、インクが風にほどけていく。
◇ ◇ ◇
扉の向こうは、夜のように暗かった。
けれど、足を踏み入れると光が灯る。
棚がずらりと並んでいた。
けれどどの本も、ページが閉じられたままだ。
「……全部、まだ読まれてないんですか?」
「そう。
書かれる前の詩、
まだ“誰の言葉にもなっていない”詩たちよ」
「書かれる前……?」
「そう。世界の中でまだ形を持たない想い。
けれど、確かにここにある」
◇ ◇ ◇
私はひとつの本を手に取った。
表紙は透けていて、まるでガラスのようだった。
指先で触れると、ほんのり温かい。
その中で、なにかが“鼓動”している。
“まだ、言葉になりたい。”
そんな声が、確かに聞こえた。
◇ ◇ ◇
「これ……誰の詩ですか?」
「それはまだ“決まっていない”詩よ」
司書は静かに答えた。
「でも、いずれ誰かが世界でそれを想い、
言葉にした瞬間、この本は開くの」
「じゃあ、これは――未来の詩?」
「そう。
“未来の心”が、詩という形でここに届くの」
◇ ◇ ◇
私はゆっくりと息を吸い込み、
その本を胸に抱いた。
まるで新しい鼓動が、自分の中に流れ込むようだった。
そして気づく。
――これもまた、“影の詩人”が残した道なのだと。
◇ ◇ ◇
「司書さん。
この詩、読ませてもらえますか?」
「読むのではなく、“聞く”のよ」
司書が指先で空をなぞる。
本がふわりと開き、
中から光の糸が立ち上がった。
それは音でも文字でもなく、
“感情そのもの”が波になって流れてくる。
胸の奥に直接響くような詩だった。
“あなたが書く詩の、その余白に。
まだ生まれていない私たちは、
静かに息をしている。”
◇ ◇ ◇
目の奥が熱くなった。
書かれていない詩たちが、
未来からこちらを見ている気がした。
「……いつか、この詩たちを読める日が来るのかな」
「ええ。
“詩人”がいる限り、
この図書館は開き続ける」
◇ ◇ ◇
外へ出ると、夕暮れの風が吹いていた。
その風の中に、無数の小さな声が混じっていた。
“まだ言葉になりたい。”
“いつか、誰かに届きたい。”
――この世界は、まだ書かれていない詩で溢れている。
私は微笑んで、ノートを開いた。
“詩は未来の声を聴くための窓。
私は、その窓を磨く詩人。”
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第67話「詩人と沈黙の読者」
「“風の図書館”を後にしたマリエルの前に、
何も語らない客が現れる。
その沈黙こそ、世界で最も深い“詩”だった――。」




