第65話 詩人と風の図書館
朝の風が、呼んでいた。
ドアの隙間から流れ込む風が、
まるで「ついておいで」と言っているようだった。
ノートのページに残った一行。
“おかえり”――その下に、新しい文字が浮かんでいた。
“図書館で会おう。”
◇ ◇ ◇
「詩人殿、出かけるのか?」
ポエールの鎧が朝日に光る。
「ええ。どうやら“詩”が行き先を決めたみたいで」
「同行しよう!」
「……お店、誰が守るんですか」
「グラスがいる!」
スライムのグラスが“ぷにぃ”と鳴いた。
――まあ、確かにこの店なら何とかなるか。
私はエプロンを脱ぎ、
カウンターに“定休日”の札を掛けた。
◇ ◇ ◇
風の道は、見えない。
けれど、確かに“音”で分かる。
草が揺れる方向、花びらが運ばれる流れ。
それを追って歩くと、
やがて森の外れにたどり着いた。
そこに――建物があった。
◇ ◇ ◇
古い石造り。
壁一面を蔦が覆い、
大きなドアの上には彫刻された文字が光っている。
風の図書館
「……本が風になる場所、ってこと?」
ドアを押すと、
中から紙の擦れるような音が溢れ出した。
◇ ◇ ◇
中は静寂だった。
だけど、耳を澄ますと――確かに“声”が聞こえる。
囁くような、詠うような、泣くような。
本棚の隙間から風が吹き抜け、
そのたびに“詩の声”が流れていく。
「ようこそ、“詩を読む人”」
声の主は、司書だった。
白髪の女性。けれどその瞳は透き通った空の色。
「あなたがマリエルさんね。
風が、あなたの名前を運んできたわ」
◇ ◇ ◇
「ここは……何の図書館なんですか?」
「書かれた詩が、風になる場所よ。
そして、風になった詩が帰ってくる場所」
女性は棚から一冊の本を取り出した。
表紙には、インクのような模様が流れている。
その本が――呼吸をしていた。
「この中に、あなたの詩がいくつも眠ってるわ」
◇ ◇ ◇
ページを開くと、
私の字が確かにそこにあった。
けれど、それはただの文字ではなく、
小さな風の粒となって宙を漂っている。
「詩って、読まれることで完成するものじゃないの?」
「それは“表”の詩。
あなたが書いた詩は、“風”になることで
もう一度世界に読まれるの」
「誰に?」
「世界そのものに、よ」
◇ ◇ ◇
司書が本を閉じると、風が少し強くなった。
本棚の間を吹き抜ける音が、まるで合唱のように響く。
たくさんの詩が、言葉を越えて世界に祈りを捧げていた。
「あなたの詩は、旅をしてるの。
けれど、ここに戻ってくる詩もある。
それは“まだ終わっていない詩”」
「終わっていない詩……?」
「はい。
あなたが書きかけたまま止めたもの。
その続きを、今、風が求めてる」
◇ ◇ ◇
司書が手渡したのは、薄い小冊子だった。
表紙には一行だけ、文字が刻まれていた。
“題:風のあとに”
ページを開くと、最初の一行だけが書かれていた。
“君がいなくなったあとも、風は吹いている。”
その先は、白紙。
◇ ◇ ◇
「……これ、私が書いたんですか?」
「いいえ。
これは、あなたの“詩の影”が書いたの」
「影の詩人が?」
「そう。
彼の詩は途中で止まっている。
だから――あなたが続きを書かなきゃいけない」
◇ ◇ ◇
私は小冊子を胸に抱いた。
風がページを撫でる。
まるで、影の詩人が「頼んだ」と囁いているみたいだった。
「詩人って、忙しいですね」
「詩人だからこそ、風の隙間に居場所があるのよ」
司書が微笑む。
その笑みは、まるでページの余白のように優しかった。
◇ ◇ ◇
外に出ると、森の上を渡る風が広がっていた。
私はノートを開き、ペンを走らせる。
“風のあとに、
言葉が咲く。
消えた詩は、まだ息をしている。”
書いた瞬間、風がふっと吹き抜けた。
その風が、ノートのページをやさしく閉じる。
「……またどこかへ、行っちゃったのね」
けれど、私は笑った。
詩は、ちゃんと帰ってくると知っているから。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第66話「詩人と閉じた本棚」
「“風の図書館”の奥には、開かれていない本棚があるという。
そこには“まだ生まれていない詩”が眠っていた――。」




