第64話 詩人と消えるインク
朝のカフェ<カオスフレーム>は、
いつもより静かだった。
ポエールもまだ来ていない。
マーリンの声も、グラスの“ぷにぃ”も聞こえない。
ただ、カップを拭く音と、私の心臓の鼓動だけ。
――ページをめくるたびに、何かが消えていく。
◇ ◇ ◇
ノートを開く。
昨日まで確かに書かれていた詩が、
薄く、透明になっていくのが見える。
まるで、言葉たちが“歩いて出ていく”ように。
最初はインクの乾きかと思った。
けれど、違う。
乾いていくのではなく、“消えている”のだ。
まるで、詩がどこかへ旅立っているみたいに。
◇ ◇ ◇
「詩人殿、どうした?」
ドアのベルと同時にポエールが入ってきた。
いつものがしゃがしゃという鎧の音が、
今日はやけに頼もしく聞こえる。
「詩が……消えてるんです」
「盗まれたのか?」
「いえ、きっと“出ていった”んです」
ポエールが首を傾げる。
「詩が、自分で歩くと?」
「はい。昨日、光と影がひとつになった時、
たぶん――言葉が“自由”になったんです」
◇ ◇ ◇
マーリンが入ってきて、ページを覗き込む。
「確かに、魔力の残滓があるわ。
文字が生きてる。これは……詩の転移魔法ね」
「そんなものがあるんですか?」
「今まではなかったけど、あなたが作ったのよ」
彼女は笑った。
「“詩法”って言ってたでしょ。
ついに本当に、詩が現実に影響し始めたのよ」
「……冗談で言ったのに」
「冗談ほど、本気になるのがこの世界よ」
◇ ◇ ◇
ページの隅がふわりと光った。
消えかけたインクが、最後の言葉を残すように震える。
“僕は詩。君から生まれ、
君の知らない場所へ行く。
でも、君の心に戻る時、
きっと次の詩になる。”
私は、ノートをそっと閉じた。
それはまるで、我が子を送り出すような気持ちだった。
◇ ◇ ◇
オグリが新聞を片手に現れた。
「詩人、今朝の風は少しざわついていたぞ」
「そうですか?」
「“読めない詩が空を飛んでいた”と書かれている」
「……やっぱり」
マーリンが笑った。
「もう、あなたの詩は世界中を旅してるのね」
「恥ずかしいです。誤字とか残ってたらどうしよう」
「それも味でしょ。詩人の“手書きの真実味”」
「それ、作家が一番嫌がる褒め言葉ですよ」
◇ ◇ ◇
ポエールが鎧の胸を叩いた。
「詩人殿、その詩、戻ってくるのだろうか?」
「きっと、風に乗って。
そしてまた、新しい詩を連れてくると思います」
「ならば今度は、その詩に鎧を付けねば!」
「それは結構です!」
笑い声がカフェに広がる。
けれど、その笑いの向こうで、
確かに風がページをめくっていた。
◇ ◇ ◇
私はカウンターに新しいノートを置く。
今度は表紙に、ひとつだけ刻印を入れた。
“詩は帰る場所を知っている。”
それが私と、世界と、詩の約束。
◇ ◇ ◇
その瞬間、ノートの上に一枚の花びらが落ちた。
淡いインク色の花びら。
それがゆっくりと溶けて、
ページに新しい一行を書いた。
“おかえり。”
私は笑った。
――詩は、ちゃんと帰ってきたのだ。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第65話「詩人と風の図書館」
「世界に散った詩を探して、マリエルが旅に出る。
風の道に沿って辿り着いたのは、“詩そのものが本になる”という不思議な図書館だった――。」




