第63話 詩人と反転するカップ
朝。
いつものようにカフェ<カオスフレーム>を開けると、
空気がわずかに“逆向き”に流れているように感じた。
扉を押したのに、風は中から外へ吹いた。
まるで店そのものが、私より先に“朝を迎えていた”みたいだった。
◇ ◇ ◇
カウンターの上には、昨夜置いたままのカップ。
“影の詩人”が座っていた席のまま、動いていない。
けれど――中身が違う。
昨夜、確かに空だったはずのカップ。
そこに、黒でも白でもない液体が半分ほど入っていた。
薄い灰色。
光を吸わず、影も映さない、不思議な色。
「……反転してる」
私の声が小さく漏れた。
◇ ◇ ◇
「おはよう、詩人殿」
ポエールが扉の外から入ってくる。
鎧の金属音が、朝の静けさに響いた。
「何か問題でも?」
「ええ……“昨日の影”が、まだ残ってるみたいで」
ポエールはカップを覗き込む。
「ふむ、毒ではないようだな」
「最初から飲む前提で話を進めないでください」
グラスが“ぷにぃ”と鳴いた。
スライム特有の反射光が、カップの表面に広がる。
その瞬間――液体の中に文字が浮かんだ。
◇ ◇ ◇
“君が光を書くなら、
僕は影を書く。
そうして、ひとつの詩が完成する。”
「……影の詩人からの置き土産ですか」
マーリンが肩越しに覗き込み、口元を緩めた。
「詩で会話をするなんて、ロマンチックね」
「私としては、ホラーに近いですけど」
「これ、どうするの?」
「淹れ直します。
――影が残したなら、光で返すのが筋です」
◇ ◇ ◇
私はドリップを始めた。
昨日より少し明るめに。
光が差し込む位置にカップを置き、
湯を静かに注ぐ。
ぽと、ぽと。
その音が、影の残した詩のリズムと重なる。
出来上がったのは、琥珀色の珈琲。
灰色の液体の隣に並べると、
昼と夜が向かい合っているようだった。
◇ ◇ ◇
「詩人殿、何をしておるのだ?」
「詩の返事です」
私はペンを取り、紙ナプキンにそっと書く。
“影が言葉を残すなら、
光は沈黙で答えよう。
どちらも、詩だから。”
書き終えてカップの横に置く。
その瞬間、二つの液体が微かに震えた。
灰色と琥珀が触れ合い――溶け合っていく。
色は、どちらでもない。
淡い金色に変わり、湯気が立ち上った。
◇ ◇ ◇
その香りは、夜の静けさと朝のやわらかさ、
両方を含んでいた。
光でも影でもない、まさに“間”の香り。
「……完成しました」
私はカップを両手で包み込む。
温度は人肌より少し高い。
けれど、飲むと心が冷静になるような味だった。
“詩とは、温度だ。
熱くしても冷ましても、
手のひらが覚えている。”
◇ ◇ ◇
「詩人殿、それは何というブレンドだ?」
「“ツイン・カップ”。
光と影の合作です」
ポエールが感嘆の声を上げ、マーリンが微笑む。
「面白いわね。
あなた、最近ますます詩的になってる」
「それ、褒めてます?」
「もちろん。
でも気をつけて。
詩人が詩に飲まれる時、
言葉が現実になることもあるのよ」
「それ、実際に起きてません?」
「ええ、今まさにね」
◇ ◇ ◇
扉のベルが鳴った。
誰もいないはずの外から、
風が“ありがとう”と囁くように吹き込んだ。
影の詩人の声だ。
私は軽く頭を下げた。
「どういたしまして」
風が静かに去っていく。
カップの表面には、
最後に小さな詩が一行だけ浮かんでいた。
“詩は、二人で書くものだ。”
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第64話「詩人と消えるインク」
「ツイン・カップの翌日、マリエルのノートの文字が少しずつ消え始める。
詩が自ら歩き出したのか、それとも――影が再び呼んでいるのか。」




