第62話 詩人と影の常連
夜が深くなる前の、宵の時間。
カフェ<カオスフレーム>のランプは、
昨日淹れた“エクリプス・ブレンド”の残り香を、まだ店に漂わせていた。
光と影のあいだを漂うような、静かな香り。
カウンターの木目さえ、どこか沈んで見える。
「詩人殿、その後、何か変化はあったか?」
ポエールの鎧が、いつもより鈍い音を立てた。
「いえ……特には。
でも、なんとなく“誰か”が見ている気がします」
「おお、気配察知か!」
「違います。たぶん、気のせいです」
◇ ◇ ◇
扉のベルが鳴ったのは、その直後だった。
音は確かに鳴ったのに、扉は開いていない。
マーリンが杖を構える。
「……今、誰か入ってきた?」
「魔力反応はある。けれど――姿が見えない」
カウンターの奥で、ランプの炎がわずかに揺れた。
光が左右に揺れるたび、影が形を変える。
そしてその“影”のひとつが――動いた。
◇ ◇ ◇
「こんばんは」
声は柔らかく、それでいてどこか乾いていた。
影がひとつ、人の形を取って立っていた。
黒髪の青年。
けれど、その瞳は光を映さない。
「すみません、席……空いてますか?」
「え、ええ……どうぞ」
彼はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
その動作が、空気を吸い取るように静かだった。
◇ ◇ ◇
「ご注文は?」
「“エクリプス・ブレンド”を」
心臓が跳ねた。
昨日、初めて淹れた“幻の一杯”。
なぜこの客がその名前を知っている?
「……どこで、その名を?」
「覚えているんですよ」
青年は微笑んだ。
「僕が書いたから」
◇ ◇ ◇
マーリンが息をのむ。
「あなたが……“前の詩人”?」
「違いますよ。
僕は――“影の詩人”です」
その言葉に、店の灯りが少しだけ暗くなった。
光を拒むように、影が壁に広がる。
「あなた、何者なんですか?」
「君の詩の、裏側です」
青年の声は静かだった。
「詩はいつも表に書かれる。
でも、そこに書けなかった想いはどこへ行くか知ってますか?」
「……」
「影になるんです」
◇ ◇ ◇
私はカップを磨く手を止めた。
青年の瞳に、自分の姿が映っていた。
けれど、それは左右が反転した“逆のマリエル”だった。
「君が“エクリプス”を淹れた時、
僕が生まれたんですよ。
――影は、光があって初めて立ち上がるから」
「つまり、私の詩が、あなたを?」
「ええ。
でも安心してください。奪いに来たわけじゃない」
青年は静かに微笑んだ。
「ただ、飲みたくて」
◇ ◇ ◇
私は深呼吸し、カップを用意した。
光と影がゆらぐ中、ドリップの音だけが響く。
湯が落ちる音が、心臓の鼓動と重なる。
「……どうぞ」
カップを差し出すと、青年は丁寧に手を伸ばした。
「ありがとう」
一口、飲む。
そして、目を閉じて微笑んだ。
「やっぱり、僕の詩だ」
◇ ◇ ◇
「詩人殿、これはどういう……?」
ポエールが困惑している。
マーリンも眉をひそめている。
私は静かに答えた。
「たぶん――これは、“言葉の影”です。
私が書けなかった気持ちが、形を持ったんです」
「じゃあ、その人は……」
「ええ、もうひとりの私」
青年――影の詩人が立ち上がる。
その影が床を滑るように広がり、私の足元に重なる。
「君が詩を書く限り、僕も生きる。
でも、ひとつだけ覚えておいてほしい」
「何を?」
「影は悪ではない。
――“本音”なんです」
◇ ◇ ◇
彼は帽子をかぶり、ランプの光の外へ歩いていった。
扉を開けることなく、ただ風に溶けるように。
残されたカップの底には、
光でも闇でもない、不思議な色が沈んでいた。
私はノートを開き、静かに書く。
“詩の裏にも、言葉が眠る。
書けなかった想いは、
光よりも静かに、生きている。”
◇ ◇ ◇
マーリンが呟いた。
「つまり、あなたの影が、詩を書きに来たのね」
「ええ。
でも、悪くない気分です」
ポエールがうなずいた。
「影あってこその光。
詩人殿、今日も良いブレンドであった!」
グラスが“ぷにぃ”と鳴く。
私は微笑んで、カップを磨いた。
その表面には、私と“影の詩人”の姿が重なって映っていた。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第63話「詩人と反転するカップ」
「翌朝、マリエルがカウンターに置いたカップの中には、
“飲まれていない珈琲”が入っていた。
それは、影が置いていった“未完の詩”だった――。」




