第61話 詩人と忘れられたメニュー
季節は少しずつ夏の気配を混ぜ始めていた。
春風のやわらかさが薄れ、代わりに陽射しの香ばしさが漂う。
カフェ<カオスフレーム>の中はいつも通りの穏やかさ。
だけど今日は、ほんの少しだけ“違う香り”がした。
「……焦げた紙の匂い?」
カウンターの奥から、ふとそんな匂いがした。
覗き込むと、棚の隙間に一枚の古びた紙が挟まっていた。
◇ ◇ ◇
取り出してみると、それは一枚のメニューだった。
だが、現在のものとは明らかに違う。
角は焼け焦げ、文字の一部は消えている。
けれど、その中央には確かにこう書かれていた。
【幻の一杯:エクリプス・ブレンド】
――光と影、どちらにも染まらぬ珈琲。
「……エクリプス・ブレンド?」
そんな名前のメニュー、私は知らない。
マーリンもポエールも首をかしげた。
◇ ◇ ◇
「詩人殿、それは以前のメニューであろうか?」
「どうでしょう。少なくとも、私が来てからは見たことがないですね」
「“エクリプス”とは日蝕のことよね」
マーリンが腕を組む。
「光と影が一度に交わる瞬間の名……詩的ではあるわね」
「でも、これ……裏に何か書いてある」
紙の裏面には、薄く走り書きのような文字が残っていた。
“この一杯を淹れる者は、
世界の終わりを見届けるだろう。”
「……おい、物騒だな」
オグリが新聞をたたみながら呟く。
◇ ◇ ◇
私は紙をもう一度見つめた。
焦げ跡の先に、誰かの指紋があるように見えた。
この店は長い年月を経てきた。
私が転生するよりも、もっと前から。
――もしかして、これを書いたのは“前の詩人”?
胸の奥が少しざわめいた。
私が出会った“無名の詩人”。
彼が残したノートには、まだ書かれていない言葉があった。
その続きが、ここにあるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「詩人殿、淹れてみぬか?」
ポエールの声が響く。
「いえ、レシピもありませんし……」
「詩人の勘というやつでどうにかなるではないか!」
「そんな万能じゃありません!」
「ならば筋肉で感じるのだ!」
「珈琲に筋肉を使わないでください!」
マーリンがため息をついた。
「まあでも、興味はあるわね」
「危険かもしれませんよ?」
「危険な香りほど、詩的じゃない?」
――まったく、この店は落ち着かない。
◇ ◇ ◇
私は棚から豆を選び、慎重に手を動かした。
焙煎の香り、湯の音、カップの響き。
それらが混ざり合って、一杯の“謎”が生まれる。
ドリップの最中、なぜか空気が変わった。
光が少しだけ暗くなり、
ランプの炎が青から紫に揺れる。
「……日蝕、か」
オグリが呟いた。
◇ ◇ ◇
淹れ終えたカップは、まるで夜空のように黒かった。
けれど、その表面には光が浮かんでいる。
影と光が、同じカップの中で共存している――
そんな、不思議な一杯だった。
「エクリプス・ブレンド……」
私はそっと香りを吸い込んだ。
苦味も酸味も、どちらも強くない。
でも、心の奥がざわつく。
まるで、見てはいけないものを覗いているような感覚。
“光を求める者は影に触れ、
影を恐れる者は光を知らない。
その狭間で、詩人は生まれる。”
――そんな言葉が、頭の中に流れ込んできた。
◇ ◇ ◇
「詩人殿、どうだ?」
「……美味しいです。けれど――」
「けれど?」
「少し、悲しい味がします」
マーリンが静かに頷いた。
「それが、“世界の終わり”の味なのかもね」
「終わり、ですか?」
「違うかもしれない。
でも、何かを見送るための味――そう感じたわ」
◇ ◇ ◇
私は残りの一口をゆっくりと飲み干した。
その瞬間、頭の中で小さな鐘の音がした。
どこかで、世界がひとつ“ページをめくった”ような音。
カフェのランプがふっと揺れ、
炎が一瞬だけ光と影の両方に染まった。
――そして、また静かに灯った。
◇ ◇ ◇
「詩人殿」
ポエールが真剣な顔で言った。
「その一杯、次は誰のために淹れる?」
私は少し考えて、微笑んだ。
「……たぶん、“これから書かれる詩”のために」
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第62話「詩人と影の常連」
「“エクリプス・ブレンド”を飲んだ翌日、
カフェに“光を嫌う客”が現れる。
彼(彼女)は、“影の詩”を名乗るもう一人の詩人だった――。」




