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第60話 詩人と春のカップ

春が来た。


 それは、花びらの色で分かる季節ではなく、

 風の匂いで気づく種類の春だった。


 カフェ<カオスフレーム>の窓を開けると、

 温かな風が中へと流れ込んでくる。

 珈琲の香りと混ざり合い、

 まるで“春”そのものが一杯のカップになったみたいだ。


◇ ◇ ◇


「詩人殿、今日の風は穏やかだな」

 ポエールが鎧を光らせながら、外を見ている。

 その足元で、スライムのグラスが“ぷにぃ”と鳴いた。

「おお、グラスも春を感じておるのだな!」

「……スライムが花粉でくしゃみするとは思いませんけどね」


 マーリンがくすくす笑った。

 彼女はテーブルに淡いピンク色のカップを並べている。

「今日から春の限定ブレンドです。“桜ミルクティ・ラテ”」

「名前がかわいい。味はどうです?」

「見た目よりも筋肉的よ」

「意味が分かりません」


◇ ◇ ◇


 そんな穏やかな朝だった。

 けれど――扉のベルが鳴った瞬間、

 私の胸はひとつ跳ねた。


 春風に乗って入ってきたのは、

 どこか見覚えのある背の高い影。


「……ブレンドを。今日はストロー二本」


 その声に、思わず微笑んでしまう。

「おかえりなさい、オグリさん」


◇ ◇ ◇


 馬頭の男――オグリ・ジュンは、

 相変わらず静かに新聞を広げた。

 けれど、今日は競馬欄ではなく社会面を開いている。


「……どうされたんです? 珍しく」

「風の便りを読んでな」

「風の……あ」

 私はハッとした。

 昨日届いた“風の詩”のことだ。


「“未来の詩人”が書いた詩、見たよ」

 オグリはカップを持ち上げながら言う。

「短いが、よくできていた。

 あれは――お前が蒔いた種だ」


「……私は、ただ風に乗せただけです」

「それで充分だ」


◇ ◇ ◇


 窓の外では、桜の花が散っている。

 花びらが一枚、カウンターに落ちた。

 私はそれをそっと摘み、カップの横に置いた。


「詩人殿、その花びらもブレンドに入れるのか?」

「まさか。飲みづらいですよ」

「詩情というやつではないのか?」

「詩情は味でなく、余韻です」


 マーリンが目を細めた。

「余韻ね……あなたも少し変わったわね」

「そうですか?」

「昔のあなたなら、“詩情は雑味です”って言ってたもの」

「……まあ、人も珈琲も、寝かせると丸くなるんです」


◇ ◇ ◇


 オグリがカップを置き、静かに言った。

「お前、自分のための詩を書いたことはあるか?」

「……自分の、ですか?」

「ああ。

 誰かに渡す詩ではなく、

 自分の胸の底にしか届かない詩だ」


 私は少し考えた。

 これまでの詩は、誰かの心に届くためのものだった。

 けれど、自分の心のための詩――。


「……ないかもしれません」


 オグリは頷く。

「なら、今日書け」


◇ ◇ ◇


 私はノートを開き、ペンを握った。

 春風がページを撫でていく。

 胸の中に浮かぶ言葉を、

 少しだけ素直に書き出してみた。


“ありがとう、という言葉は、

飲み終わった珈琲の底にある。

苦みと香りが残る、それが私の詩。”


 書き終えたとき、

 なぜか泣きそうになった。

 それは誰にも見せない詩。

 でも確かに、今の私のための言葉だった。


◇ ◇ ◇


 マーリンが優しく微笑む。

「それでいいのよ。

 詩人は世界に言葉を渡すけど、

 たまには自分の心にも返してあげないと」

 ポエールが頷く。

「詩人殿、自分の詩を味わうがよい!」

「……味わうって言い方やめてください」


 みんなが笑った。

 グラスが“ぷにぃ”と鳴く。

 春風が、カフェの中を優しく巡っていく。


◇ ◇ ◇


 オグリが立ち上がり、帽子を取った。

「詩人。春は別れの季節だ」

「……行かれるんですね」

「また来るさ。

 風が詩を運ぶ限りな」


 彼の背中が扉をくぐり、

 花びらと一緒に消えていった。


◇ ◇ ◇


 私はそっとカップを磨いた。

 春の光が珈琲の表面にきらめく。


“誰かのための詩を書いたら、

次は自分のための詩を書こう。

そうして、また誰かに渡せるように。”


 その言葉を胸の中で反芻しながら、

 私は静かに微笑んだ。


 ――春のカップには、少しだけ甘い余韻が残っていた。


◇ ◇ ◇


――次回予告――

第61話「詩人と忘れられたメニュー」

「春が過ぎ、カフェの棚の奥から見つかった一枚の古い紙。

 そこに書かれていたのは、もう誰も頼まなくなった“幻の一杯”だった――。」

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