第54話 詩人と無名の客
夜が明けきらない薄明の時間。
カフェ<カオスフレーム>のランプは、
昨夜ともした“青い炎”をまだ静かに揺らしていた。
私はカウンターの奥で、
湯を沸かしながらその灯を見つめていた。
青い火って、本当は一番熱いはずなのに――
見てると、むしろ心が落ち着く。
世の中って、不思議だ。
「……あの闇も、きっと迷っていただけなんだろうな」
◇ ◇ ◇
扉のベルが、ひとつ鳴った。
音の余韻が、妙に長く響いた。
顔を上げると、ひとりの客が立っていた。
年齢も性別も分からない。
黒い外套に身を包み、
帽子のつばが深く顔を隠している。
「……いらっしゃいませ。
ご注文は?」
「ブレンドを。……できれば、言葉少なめで」
低い声だった。
けれどその響きは、どこか懐かしい。
◇ ◇ ◇
私は黙って豆を挽いた。
香りがゆっくりと広がる。
客は静かにそれを見ていた。
「いい香りだ」
「ありがとうございます」
「この香りを嗅ぐと……“名前”を思い出しそうになる」
その言葉に、私は手を止めた。
「名前を……思い出す?」
「ああ。
私はずっと、“名を持たない詩人”だった。
言葉を書くたびに、名前が剥がれていったんだ」
◇ ◇ ◇
客が帽子を外す。
そこにあったのは――
どこかで見たことのある顔。
まるで、鏡に映った自分を見ているような。
「……あなた、誰ですか?」
「君の“前の名”だよ」
「……え?」
時間が止まった。
客の瞳は、確かに私と同じ色をしていた。
◇ ◇ ◇
「詩人は、“名”を重ねて生きる。
君が新しい詩を書けば、
古い詩人は名前を失ってゆく。
私は、君が生まれる前の“詩人”だ」
「前の……詩人……」
心臓が静かに鳴る。
手の中のカップが、わずかに震えた。
「なら、どうしてここに?」
「君に、渡しに来た」
客――“無名の詩人”は、
外套の内側から一冊の古びたノートを取り出した。
「“夜の詩”。
おそらく、これが最後の欠片だ」
◇ ◇ ◇
私はそっとノートを開いた。
ページの中に、かすかな光が漂っている。
まるで、書かれた言葉がまだ息をしているみたい。
“夜は名を持たない。
名を持たぬものは、
いつか誰かに詠まれることで、生まれ直す。”
「……これ、あなたが書いたんですか?」
「いいや。
書いたのは、“その前”の詩人だ。
私たちは、連なる言葉の影だ」
◇ ◇ ◇
マーリンが静かに近づき、
そのノートを見つめた。
「これが“夜の詩”……?」
「ええ。
これで、三つの詩が揃う」
ポエールが胸を叩く。
「夜の詩、影の詩、星の詩!
ついにすべての欠片が揃ったのだな!」
スライムのグラスが誇らしげに“ぷにぃ!”と鳴く。
けれど私は、手の震えが止まらなかった。
「あなたは……これを渡したら、どうなるんですか?」
「“名を取り戻す”さ」
無名の詩人は微笑む。
「次の詩人にすべてを託したら、
ようやく“名前”を名乗れる」
◇ ◇ ◇
青いランプの光が、二人の間に広がった。
まるで、古い言葉と新しい言葉が抱き合うように。
「あなたの名前、聞いてもいいですか?」
「もう覚えていないよ。
でも……君が呼んでくれれば、それが私の名になる」
私は静かに口を開いた。
「――マリエル、です」
無名の詩人は微笑んだ。
「そうか。なら、私も“マリエル”だったんだな」
◇ ◇ ◇
光が弾ける。
ノートの文字が空へ舞い上がり、
天井を突き抜けて夜空へ溶けていく。
空には、三つの星が並んでいた。
“星の詩”、“影の詩”、そして“夜の詩”。
それらがひとつの形を描く――
まるで、カフェのランプのような灯の模様を。
◇ ◇ ◇
「ありがとう」
無名の詩人の声が遠ざかる。
「これで夜は、もう二度と迷わない」
その言葉と共に、彼の姿は光に包まれて消えた。
私は静かにカップを磨きながら、
残されたノートを胸に抱いた。
“詩は命。
名を渡すたび、
世界は生まれ変わる。”
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第55話「詩人と最後の夜」
「三つの詩が揃った夜。
空に広がる“言葉の灯”が、
世界の終わりと再生を告げる。」




