第52話 詩人と消えない光
昼と夜の境界がまた少し曖昧になった日。
私はいつものようにカウンターで珈琲を淹れていた。
カップの底に映る炎が揺らぐ。
その揺らぎが、心の奥の詩を撫でていくようだった。
「――いらっしゃいませ」
扉のベルが鳴った。
小さな影が、光の中から歩いてくる。
◇ ◇ ◇
少女だった。
年のころは十にも満たないだろうか。
真っ白なワンピースに、淡い金の髪。
瞳は光を湛えていて、まるでガラス玉のよう。
けれど、その“光”があまりに強すぎた。
店のランプの炎が近づくと、
まるで拒むように――ふっと消えてしまう。
「……あの、ごめんなさい」
少女は俯いて言った。
「わたし、夜が怖いんです。
暗いところにいると、息ができなくなっちゃう」
◇ ◇ ◇
マーリンが眉をひそめる。
「光を吸いすぎてる。
体の中に、夜を入れる余地がないのね」
ポエールが腕を組む。
「つまり、夜を忘れた村と同じ……いや、それ以上か」
少女は小さく震えながら、
窓の外の空を見上げていた。
「だって、夜って……いなくなっちゃうじゃないですか。
お母さんも、お父さんも、夜に飲まれて帰ってこなかった」
私は、言葉を失った。
◇ ◇ ◇
静かにカップを磨きながら、
私は少女の顔を見た。
その光は綺麗だったけれど、
痛いほど孤独だった。
「ねえ、あなたは“夜”を見たことがある?」
「……ないです。
でも、影なら見ました。怖かった」
私はふっと笑った。
「影はね、あなたを映すためにあるのよ。
光がなければ影は生まれない。
でも影がなければ、光も意味を失うの」
「……意味?」
「うん。
夜は怖いけど、世界を休ませてくれる時間。
“怖い”って感じるのは、生きている証拠なの」
◇ ◇ ◇
少女の瞳が揺れた。
その奥で、光が一瞬だけ弱まる。
まるで息を吸い込むように。
「……でも、どうすれば夜を怖くなくなりますか?」
「それは簡単」
私は笑って、ランプに火を灯した。
「夜に、“小さな光”を見つければいい」
炎がふっと揺れ、
少女の頬をやわらかく照らす。
「見て。この灯りが消えないのはね、
“夜”があるからなの」
「……夜が、あるから?」
「うん。
昼の光は空がくれるけど、
夜の光は人が作るんだよ」
◇ ◇ ◇
少女は、そっとランプに手を伸ばした。
指先が光に触れる。
少し震えていたけれど、もう逃げようとはしなかった。
その瞬間、カップの中の“星の光”が静かに揺れた。
炎と星の光が重なり合い、
店の中がやさしい夜色に包まれる。
「……あったかい」
少女の声は小さく、けれど確かだった。
「ねえ、お姉さん。
この光の名前、つけてもいいですか?」
「もちろん」
少女は少し考えて、
にっこりと笑って言った。
「“消えない光”って名前にします」
◇ ◇ ◇
私はノートを開いて、一行の詩を書いた。
“夜を恐れる心にも、
光は生まれる。
それが、世界のやさしさ。”
書き終えると、少女の姿は淡い光となって溶けていった。
まるで、“夜を克服した祈り”そのもののように。
◇ ◇ ◇
カウンターには、ひとつの小瓶が残っていた。
中には、消えない炎が灯っている。
マーリンがそれを見て微笑む。
「また一つ、世界が呼吸を取り戻したわね」
私は頷いた。
「ええ。
夜を怖がる子にも、朝は来る。
でも、本当の朝は――夜の中から生まれるの」
ポエールが笑い、
グラスが“ぷにぃ”と鳴く。
オグリは黙ってカウンターの炎を見つめていた。
“夜は、怖くていい。
その恐れこそが、光を呼ぶ。”
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第53話「詩人と消えたランプ」
「翌晩、カフェの象徴であるランプの灯が突然消えた。
消えないはずの光を取り戻すため、
詩人マリエルは“闇そのもの”と対話する。」




