第43話 詩人と雨の記憶
朝から、雨が降っていた。
静かで、細くて、やさしい雨。
昨日までの沈黙が嘘のように、
いまはすべてがやわらかな音を立てていた。
屋根を打つ雨の音、
窓を流れるしずくの足音。
それらが混ざり合って、
カフェ<カオスフレーム>の中を包んでいる。
「……音って、こんなに温かかったんだ」
私はポットにお湯を注ぎながら、
昨夜までの無音の世界を思い出していた。
◇ ◇ ◇
棚の奥を掃除していると、
古びた革の装丁が手に触れた。
「……なにこれ?」
小さな詩集だった。
ページはふるえたように波打ち、
表紙には銀色の文字が刻まれている。
『雨の詩集』
どこか懐かしい響き。
でも、見覚えはない。
ページを開こうとすると、
――カサリ、と音を立てて閉じた。
「……え?」
もう一度開こうとする。
だが、指先からすべって拒むように閉じられる。
そのとき、マーリンがカウンターの奥から顔を出した。
「それ、雨の日にしか読めないわよ」
「え?」
「魔法書みたいなもの。
“音の雨”が降ってるときだけ、詩が現れるの」
◇ ◇ ◇
私は窓辺に腰を下ろし、
詩集をそっと膝の上に置いた。
雨音がページに触れるたび、
薄い光の文字が浮かび上がってくる。
“雨は、世界の記憶を溶かす。
香りのかけら、
ひとの残響。”
それは、まるでこの店の記録のようだった。
「……もしかして、この詩集……」
私は他のページを開いた。
そこには、昨日の出来事のような詩があった。
“音が消えた日、
詩人は香りを聴いた。
それは、言葉になる前の祈り。”
心臓が跳ねた。
まるで、この本が昨日の“沈黙”を記録しているみたいだ。
◇ ◇ ◇
オグリがやってきて、窓際の席に座った。
新聞を閉じたまま、珍しく静かに外を見ている。
「……詩人」
「はい」
「この雨、昨日の沈黙の名残りだ。
世界が音を取り戻すとき、
必ず少し涙を流す」
「涙、ですか」
「詩人の世界は、泣くことを知っている」
馬の顔でそんなことを言うのに、
どうしてこんなに深く響くのか。
◇ ◇ ◇
ポエールとグラスもやってきた。
スライムの体が雨粒をはじいて光っている。
彼は鎧を脱ぎ、
珍しく素顔で(といっても泥まみれだったが)カウンターに座った。
「詩人殿、この雨、悪くないな」
「どうして?」
「世界が一度止まって、もう一度動き出した音がする。
剣よりも勇敢な静けさだ」
「ポエールさん、それ詩ですね」
「む、我も詩人になれるか?」
「……たぶん、音量を落とせば」
◇ ◇ ◇
マーリンがカップを置いた。
カップの中では、湯気がまるで雨雲のように揺れている。
「この店って、ほんとに生きてるみたい」
「……はい。
詩を書くたび、ページが増えてる気がするんです」
「それ、たぶん“詩集”と繋がってるのよ」
「繋がってる?」
「あなたの言葉が、この世界の“雨”を呼ぶの」
「……雨を、呼ぶ?」
マーリンが小さく笑う。
「詩ってそういうものでしょ。
誰かの心に降る雨だから」
◇ ◇ ◇
私はノートを開き、
“雨の詩集”の隣に、今日の一行を書いた。
“雨は、記憶の音。
香りが涙に変わるとき、
世界は優しさを思い出す。”
書き終えたとき、雨が少し弱まった。
外の光が差し込み、ページがほのかに光る。
詩集の最後のページが、風にめくられた。
そこには、たった一文だけ書かれていた。
“次に降る雨は、
詩人の心の中に。”
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第44話「詩人と消える虹」
「雨が止み、街に虹がかかる。
しかし、マリエルの見る虹だけが“色を持たない”。
失われた色を探す詩の旅が、静かに始まる――。」




