第42話 詩人と沈黙の形
翌朝、目を覚ました瞬間に気づいた。
――世界から、音が消えていた。
鳥の声も、風のざわめきも、
カップを置く小さな音さえもない。
それなのに、世界は確かに動いている。
私はゆっくりと息を吐いた。
その息も、音を立てない。
「……これが、“風が止まる”ってこと?」
◇ ◇ ◇
カフェに着くと、扉の鈴は鳴らなかった。
店内はいつもと同じ景色――なのに、どこか“閉じている”。
グラス(スライム)はカウンターの上でゆっくりと揺れ、
ポエールが無言で手を振っていた。
声も、出せないのだ。
マーリンが入ってくる。
彼女も唇を動かすが、音がない。
ローブの袖が揺れ、ダンベル杖の金属音さえ消えている。
私はカウンターの上の帳面を指差した。
彼らも頷く。
会話の代わりに、手と紙だけが頼りだ。
◇ ◇ ◇
私はポットに水を注いだ。
流れる水が光を反射してきれいだった。
――けれど、やはり音がない。
お湯が沸いても泡のはじける音がしない。
こんなに静かな世界があるなんて、
知らなかった。
香りだけが、唯一の“声”になっていた。
湯気が立ち上るたび、
豆の匂いがかすかに形を持って漂っていく。
◇ ◇ ◇
私はノートに書いた。
「音がないのに、香りが生きてる」
ポエールが頷き、
マーリンが“見るだけで分かる魔法”の印を描いた。
その印の中に、微かに文字が浮かぶ。
「この沈黙は、試練。
言葉を失った世界で、
詩人だけが声を持つ。」
それは昨日の影の言葉に似ていた。
まるで、彼の残した詩が現実になったようだった。
◇ ◇ ◇
私はカウンターに新しい紙を広げた。
ペン先が走る音もしない。
でも、心の中では確かに響いていた。
“沈黙は、詩の逆鱗。
声が消えるとき、
言葉は形になる。”
書いた瞬間、
豆の瓶がわずかに震えた。
ラベルが光り、瓶の中で粉がふるえ、香りが弾ける。
その香りが、音の代わりに店内を満たした。
“ざわめきのないざわめき”。
◇ ◇ ◇
マーリンがカップを手に取った。
中身は湯気すら立たない。
けれど、彼女の唇が動いた。
声が出ないまま、詩のような口の動きだけが続く。
ポエールが胸に手を当てる。
その動作だけで“ありがとう”が伝わった。
グラスが小さく“ぷに”と震えた。
音はないのに、確かにそう聞こえた。
◇ ◇ ◇
私はカウンターに手を置いた。
木のぬくもりが、まるで脈打つように感じられた。
世界はまだ、生きている。
ただ、言葉を探しているだけ。
私はもう一度ペンを取った。
“音が消える日、
詩がはじめて本当の息をする。”
書き終えると、
外の風がかすかに揺れた。
ほんの一瞬、ドアベルが震え――小さく音を立てた。
“ちりん”
その音は、世界の息吹きのように美しかった。
◇ ◇ ◇
マーリンが息をのむ。
ポエールが大きく笑う。
オグリが新聞を掲げ、
グラスが“ぷにぃぃ!”と震える――(今度こそ本当に音があった)。
音が戻ってきたのだ。
◇ ◇ ◇
私は帳面を閉じ、深く息をついた。
世界はまた、息を吹き返した。
けれど、あの沈黙を忘れることはない。
香りが、言葉になる前の“原石”のように、
まだ胸の奥で光っている。
“沈黙の形は、祈りの形。
声のない祈りもまた、詩となる。”
私はその一行を静かに書き足した。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第43話「詩人と雨の記憶」
「沈黙が去った翌日、マリエルは一冊の古い詩集を見つける。
それは“雨の日にしか読めない詩”が書かれた、不思議な本だった――。」




