第41話 詩人と影の午後
午後の終わり。
西の光が店内の木目を金色に染め、
空気の中にゆるい眠気が溶けていた。
ポエールとオグリはすでに帰り、
マーリンはいつものように“筋トレ魔法”をしていた。
スライムのグラスが、カウンターの端で“ぷにぃ”と伸びをする。
「……静かね」
私は、冷めかけたカップを指でなぞった。
朝から続いた笑い声も、昼のざわめきも、
今はもう、残り香のように薄れている。
◇ ◇ ◇
外では、風が街角を撫でていた。
看板がゆらりと揺れ、ドアベルがかすかに鳴る。
それが合図のように、扉が開いた。
カラン。
「……いらっしゃいませ」
顔を上げた瞬間、思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、
深い灰色のローブをまとった人物だった。
帽子のつばが影を落とし、顔は見えない。
ただ、その輪郭がどこか――懐かしい。
◇ ◇ ◇
「ここに、“詩人”がいると聞いた」
その声。
低く、静かで、けれど不思議な温度を持っていた。
どこかで聞いたことがある。
けれど、思い出そうとすると霧のように消えてしまう。
「はい。……私が、その詩人です」
「そうか」
人物はゆっくりとカウンターに歩み寄り、
重い布の裾を揺らして椅子に腰を下ろした。
「ブレンドを、一杯」
◇ ◇ ◇
私は少し迷いながらも、豆を選び、
ポットに湯を注ぐ。
湯気が立ち上るたび、視界の端でローブの影がゆらめいた。
「あなた……どこかでお会いしましたか?」
「さてな。人の記憶など、曖昧なものだ」
その声には微かな笑みが混じっていた。
湯気の向こうで、
影の中の瞳がわずかに光った気がした。
◇ ◇ ◇
カップを差し出すと、
その人物は静かに受け取った。
一口、口に含み、しばらく目を閉じる。
「……なるほど。香りが生きている」
「え?」
「この世界の詩が、まだ息をしている証だ」
彼の言葉に、胸の奥がざわついた。
“この世界の詩”――
その言葉を、前にも誰かが口にした。
そうだ。
“創業詩人”ルーク=エルダンのノートにも。
◇ ◇ ◇
「あなた、まさか……」
「私が誰かなど、今はどうでもいい」
彼はゆっくりと立ち上がった。
カップの底に光の輪が残っている。
「詩人。
この世界の香りが、やがて一度“無音”になる。
そのとき、あなたの言葉がすべてを繋ぐ」
「……どういう意味ですか?」
「風が止まる前に、
言葉を拾っておけ」
そう言い残し、人物は扉へ向かった。
帽子の影が、夕陽の光をかすめて揺れる。
◇ ◇ ◇
ドアベルが鳴る。
外の光が赤く滲み、影が地面に溶けた。
私は慌てて外に出た。
けれど、もうどこにもその姿はなかった。
風だけが、微かに香った。
焦げた豆と、雨の前の空気の匂い。
◇ ◇ ◇
カウンターに戻ると、
カップの下に一枚の紙が残っていた。
それは、古びた詩の切れ端だった。
“詩は香りの影。
言葉が消えるとき、
世界は沈黙の形をとる。”
私は震える指でそれを帳面に貼った。
インクが少し滲み、香りが広がる。
沈黙の形。
それが、何を意味するのかはまだ分からない。
けれど、この午後の影が、
何かを予感していることだけは確かだった。
◇ ◇ ◇
窓の外、夕暮れの光が消えていく。
グラスが“ぷにぃ”と鳴き、
マーリンがそっと言った。
「マリエル。風が、変わるわ」
私は頷き、
カップを磨く手を止めた。
夕闇が、静かに店を包み込んでいった。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第42話「詩人と沈黙の形」
「“風が止まる”――その予言が現実になる。
街の音が消え、カフェの香りが途絶えるとき、
詩人マリエルは“言葉”の意味を問われる。」




