表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/101

第37話 詩人と一杯の幻

夜が深くなっていた。

 カフェ<カオスフレーム>のランプは落とされ、

 最後の客も帰り、静寂が残っている。


 私はカウンターに座り、ノートを閉じた。

 空白のページはまだ温かく、

 今日書き加えたインクの香りがかすかに漂っていた。


 そのとき——ドアの鈴が“ちりん”と鳴った。


◇ ◇ ◇


「……もう閉店なんですけど」

 そう言いながら振り向くと、そこに立っていたのは一人の青年。

 まだ二十歳にも満たないような、あどけない顔。

 けれど、その瞳の奥には、どこか遠くを見つめる静けさがあった。


「幻のブレンドを、一杯ください」


「……幻?」


 私は思わず聞き返した。

 青年はうなずく。

「“詩人が夢の中で淹れた”っていうブレンドです。

 僕、その味を知ってる気がするんです」


◇ ◇ ◇


 奇妙な注文。

 けれど、その言葉にはどこか懐かしい響きがあった。


「ブレンドN°07……ですか?」

「名前は分かりません。でも、香りだけ覚えてます。

 あの、やさしい花みたいな——」


 彼の言葉に、胸が少し震えた。

 昨日、“香りが歩いた”あの一杯の記憶が蘇る。


「……分かりました。できるかどうかは分かりませんが」

 私はポットを手に取った。


◇ ◇ ◇


 豆を選ぶ。

 棚にはもう“N°07”はない。

 でも、手が自然と動いた。

 少し明るい焙煎の豆を混ぜ、

 ほんのわずかにハニーを加えた。


 お湯を注ぐ。

 湯気がゆらめき、

 カップの底で波が踊る。

 その香りは——たしかに、どこか懐かしい。


「……あった」

 青年が目を見開いた。

「この香り、間違いない。これだ……!」


◇ ◇ ◇


 彼は一口、そっと口に含んだ。

 その瞬間、目に涙が浮かぶ。


「父が、よく言ってたんです。

 “詩人のカフェの一杯を飲むと、夢の続きを見られる”って」


「お父さん……?」


「はい。昔、ここで働いてた人でした。

 でも、僕が生まれる前に亡くなって……。

 小さいころ、家にこの香りだけが残ってて」


 彼の言葉が、胸に沁みていく。

 “カフェの記憶”が、またひとつ形を取り戻した。


◇ ◇ ◇


「……あなたのお父さん、もしかして——」

 私はカウンターの下のノートを開いた。

 創業記録の最初のページ。

 そこに書かれていた名前。


 ——詩人・ルーク=エルダン。


「それが父です」

「……やっぱり」


 青年は静かに頷き、カップを見つめた。

 湯気が立ちのぼり、その中に一瞬だけ“人の影”が見えた気がした。

 優しい笑みを浮かべる詩人の姿。


 けれど次の瞬間にはもう、ただの香りに戻っていた。


◇ ◇ ◇


「……これが、父の味だったんですね」

「きっとそうです。香りは歩くって、誰かが言ってました」

「ええ、たしかに。僕のところまで来てくれた」


 青年は小さく笑った。

 その笑顔が、どこか懐かしかった。


「詩人さん。これ、代金です」

 差し出されたのは、一枚の古びた銀貨。

 あの“名を持たぬ客”のものと同じ刻印。


「……あなた、まさか」

「夢はまだ、終わってません」


 そう言って、青年は静かに扉を出ていった。

 鈴が鳴り、雨の音だけが残る。


◇ ◇ ◇


 カウンターには、まだ温かいカップ。

 その底に、光がひとつ浮かんでいた。

 小さな詩のような光。


“幻は、記憶のやさしい嘘。

けれどその香りは、真実の方が近い。”


 私はページにそのまま書き写した。

 “幻のブレンド”は、確かに存在した。


◇ ◇ ◇


――次回予告――

第38話「詩人と星を煮る夜」

「真夜中のカフェに“星を煮る”と言う旅人が現れる。

 カップの中で光るのは、空のかけら、それとも——。」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ