第37話 詩人と一杯の幻
夜が深くなっていた。
カフェ<カオスフレーム>のランプは落とされ、
最後の客も帰り、静寂が残っている。
私はカウンターに座り、ノートを閉じた。
空白のページはまだ温かく、
今日書き加えたインクの香りがかすかに漂っていた。
そのとき——ドアの鈴が“ちりん”と鳴った。
◇ ◇ ◇
「……もう閉店なんですけど」
そう言いながら振り向くと、そこに立っていたのは一人の青年。
まだ二十歳にも満たないような、あどけない顔。
けれど、その瞳の奥には、どこか遠くを見つめる静けさがあった。
「幻のブレンドを、一杯ください」
「……幻?」
私は思わず聞き返した。
青年はうなずく。
「“詩人が夢の中で淹れた”っていうブレンドです。
僕、その味を知ってる気がするんです」
◇ ◇ ◇
奇妙な注文。
けれど、その言葉にはどこか懐かしい響きがあった。
「ブレンドN°07……ですか?」
「名前は分かりません。でも、香りだけ覚えてます。
あの、やさしい花みたいな——」
彼の言葉に、胸が少し震えた。
昨日、“香りが歩いた”あの一杯の記憶が蘇る。
「……分かりました。できるかどうかは分かりませんが」
私はポットを手に取った。
◇ ◇ ◇
豆を選ぶ。
棚にはもう“N°07”はない。
でも、手が自然と動いた。
少し明るい焙煎の豆を混ぜ、
ほんのわずかにハニーを加えた。
お湯を注ぐ。
湯気がゆらめき、
カップの底で波が踊る。
その香りは——たしかに、どこか懐かしい。
「……あった」
青年が目を見開いた。
「この香り、間違いない。これだ……!」
◇ ◇ ◇
彼は一口、そっと口に含んだ。
その瞬間、目に涙が浮かぶ。
「父が、よく言ってたんです。
“詩人のカフェの一杯を飲むと、夢の続きを見られる”って」
「お父さん……?」
「はい。昔、ここで働いてた人でした。
でも、僕が生まれる前に亡くなって……。
小さいころ、家にこの香りだけが残ってて」
彼の言葉が、胸に沁みていく。
“カフェの記憶”が、またひとつ形を取り戻した。
◇ ◇ ◇
「……あなたのお父さん、もしかして——」
私はカウンターの下のノートを開いた。
創業記録の最初のページ。
そこに書かれていた名前。
——詩人・ルーク=エルダン。
「それが父です」
「……やっぱり」
青年は静かに頷き、カップを見つめた。
湯気が立ちのぼり、その中に一瞬だけ“人の影”が見えた気がした。
優しい笑みを浮かべる詩人の姿。
けれど次の瞬間にはもう、ただの香りに戻っていた。
◇ ◇ ◇
「……これが、父の味だったんですね」
「きっとそうです。香りは歩くって、誰かが言ってました」
「ええ、たしかに。僕のところまで来てくれた」
青年は小さく笑った。
その笑顔が、どこか懐かしかった。
「詩人さん。これ、代金です」
差し出されたのは、一枚の古びた銀貨。
あの“名を持たぬ客”のものと同じ刻印。
「……あなた、まさか」
「夢はまだ、終わってません」
そう言って、青年は静かに扉を出ていった。
鈴が鳴り、雨の音だけが残る。
◇ ◇ ◇
カウンターには、まだ温かいカップ。
その底に、光がひとつ浮かんでいた。
小さな詩のような光。
“幻は、記憶のやさしい嘘。
けれどその香りは、真実の方が近い。”
私はページにそのまま書き写した。
“幻のブレンド”は、確かに存在した。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第38話「詩人と星を煮る夜」
「真夜中のカフェに“星を煮る”と言う旅人が現れる。
カップの中で光るのは、空のかけら、それとも——。」




