表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/101

第36話 詩人と消えたブレンド

朝の光がカウンターの上を滑る。

 いつもと変わらぬ始まり。

 けれど、その「いつも」が——今日は少しだけ違っていた。


 棚に並ぶ豆の瓶。

 どれも整然と並び、ラベルが揃っている。

 その中のひとつが、ぽっかりと抜けていた。


「……あれ?」


 私は手帳を開いて確認する。

 昨日の記録では、確かにそこにあったはず。

 “ブレンドN°07 苦みを知らぬ香り”——

 カフェ創業期から伝わる、最も古いレシピのひとつ。


 瓶の代わりに、小さな紙切れが残されていた。


『香りは歩く』


「……歩く?」


◇ ◇ ◇


 がしゃん。

「詩人殿、朝の勇敢な香りを!」

「おはようございます。……って、ちょうどいいところに」

 スライムに乗ったポエールが入ってくる。

 床がぷにぷにと鳴り、鎧がそれに合わせてきらりと光った。


「香りが歩いた、と?」

「はい。この豆の瓶がなくなってて、代わりにこれが」

 私は紙切れを差し出す。

 ポエールは鎧の隙間からそれをつまみ、真剣な顔で読む。


「む……! 敵の暗号か!?」

「いや、ただの詩的なメモだと思うんですけど……」

「詩的な暗号か!?」

「話が進まない……!」


◇ ◇ ◇


 そこへ、いつもの低音。

「詩人、ブレンドはまだか」

「オグリさん、ちょっと待ってください! 豆が一種類なくなってて」

「……消えた?」

「はい、“苦みを知らぬ香り”が」


 オグリは少し考え込んだあと、新聞をたたむ。

「その豆、創業記録に載っていたな。

 “初代詩人が最後に焙煎した豆”と」

「え、そうなんですか?」

「昨日のノートを見たろう。……あの空白の後に、もしかしたら」


「まさか、空白が……動いた?」

 我ながらあり得ないことを口にして、少し笑ってしまった。

 でも、この店なら——そんな不思議も起こりうる。


◇ ◇ ◇


 そのとき、カウンターの端から甘い香りが漂った。

 振り向くと、誰も触っていないポットから湯気が立ちのぼっている。

 湯気の中に、わずかに“花のような香り”。

 それは確かに——N°07の香りだった。


「……誰か、淹れた?」

「我ではない!」

「スライム?」

 “ぷにぃ?”

 スライムは首(?)を傾げて無実を訴える。


◇ ◇ ◇


 その香りは、店中を満たしていった。

 壁の木目がわずかに温まり、窓ガラスの曇りが静かに晴れていく。

 まるで、店そのものが“息をしている”みたいに。


「これは……創業の香りかもしれません」

 私は呟いた。

 “苦みを知らぬ香り”——それは、まだ世界が優しかった頃の記憶。

 カオスフレームが“詩人の店”と呼ばれた最初の日の香り。


 オグリが静かにカップを持ち上げる。

「詩人。苦みがないというのは、甘さを恐れぬということだ」

「……なるほど。哲学的ですね」

「馬は深い」

「そうですね……本当に」


◇ ◇ ◇


 香りが消えたあと、ポットの底には一滴だけ残っていた。

 私はそれをそっと拭き取り、創業ノートの空白ページに滲ませた。


 インクのように広がる香りの染みが、

 やがて文字になった。


“香りは歩く。

次の詩人の手へ。”


 ページの余白が、また少しだけ埋まっていった。


◇ ◇ ◇


 その夜、帳面に書く。


“香りは、記憶のかけら。

消えるとき、

ほんの少しだけ笑う。”


 外ではまた、静かに雨が降り始めていた。

 けれど、今日はその音が、どこかあたたかく聞こえた。


◇ ◇ ◇


――次回予告――

第37話「詩人と一杯の幻」

「ある日、見知らぬ客が来て“幻のブレンド”を注文する。

 しかし、そんな豆はどこにも存在しない——はずだった。」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ