第36話 詩人と消えたブレンド
朝の光がカウンターの上を滑る。
いつもと変わらぬ始まり。
けれど、その「いつも」が——今日は少しだけ違っていた。
棚に並ぶ豆の瓶。
どれも整然と並び、ラベルが揃っている。
その中のひとつが、ぽっかりと抜けていた。
「……あれ?」
私は手帳を開いて確認する。
昨日の記録では、確かにそこにあったはず。
“ブレンドN°07 苦みを知らぬ香り”——
カフェ創業期から伝わる、最も古いレシピのひとつ。
瓶の代わりに、小さな紙切れが残されていた。
『香りは歩く』
「……歩く?」
◇ ◇ ◇
がしゃん。
「詩人殿、朝の勇敢な香りを!」
「おはようございます。……って、ちょうどいいところに」
スライムに乗ったポエールが入ってくる。
床がぷにぷにと鳴り、鎧がそれに合わせてきらりと光った。
「香りが歩いた、と?」
「はい。この豆の瓶がなくなってて、代わりにこれが」
私は紙切れを差し出す。
ポエールは鎧の隙間からそれをつまみ、真剣な顔で読む。
「む……! 敵の暗号か!?」
「いや、ただの詩的なメモだと思うんですけど……」
「詩的な暗号か!?」
「話が進まない……!」
◇ ◇ ◇
そこへ、いつもの低音。
「詩人、ブレンドはまだか」
「オグリさん、ちょっと待ってください! 豆が一種類なくなってて」
「……消えた?」
「はい、“苦みを知らぬ香り”が」
オグリは少し考え込んだあと、新聞をたたむ。
「その豆、創業記録に載っていたな。
“初代詩人が最後に焙煎した豆”と」
「え、そうなんですか?」
「昨日のノートを見たろう。……あの空白の後に、もしかしたら」
「まさか、空白が……動いた?」
我ながらあり得ないことを口にして、少し笑ってしまった。
でも、この店なら——そんな不思議も起こりうる。
◇ ◇ ◇
そのとき、カウンターの端から甘い香りが漂った。
振り向くと、誰も触っていないポットから湯気が立ちのぼっている。
湯気の中に、わずかに“花のような香り”。
それは確かに——N°07の香りだった。
「……誰か、淹れた?」
「我ではない!」
「スライム?」
“ぷにぃ?”
スライムは首(?)を傾げて無実を訴える。
◇ ◇ ◇
その香りは、店中を満たしていった。
壁の木目がわずかに温まり、窓ガラスの曇りが静かに晴れていく。
まるで、店そのものが“息をしている”みたいに。
「これは……創業の香りかもしれません」
私は呟いた。
“苦みを知らぬ香り”——それは、まだ世界が優しかった頃の記憶。
カオスフレームが“詩人の店”と呼ばれた最初の日の香り。
オグリが静かにカップを持ち上げる。
「詩人。苦みがないというのは、甘さを恐れぬということだ」
「……なるほど。哲学的ですね」
「馬は深い」
「そうですね……本当に」
◇ ◇ ◇
香りが消えたあと、ポットの底には一滴だけ残っていた。
私はそれをそっと拭き取り、創業ノートの空白ページに滲ませた。
インクのように広がる香りの染みが、
やがて文字になった。
“香りは歩く。
次の詩人の手へ。”
ページの余白が、また少しだけ埋まっていった。
◇ ◇ ◇
その夜、帳面に書く。
“香りは、記憶のかけら。
消えるとき、
ほんの少しだけ笑う。”
外ではまた、静かに雨が降り始めていた。
けれど、今日はその音が、どこかあたたかく聞こえた。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第37話「詩人と一杯の幻」
「ある日、見知らぬ客が来て“幻のブレンド”を注文する。
しかし、そんな豆はどこにも存在しない——はずだった。」




