第35話 詩人と空白のレシピ
雨があがった朝。
カフェ<カオスフレーム>の空気は、どこか澄んでいた。
窓を開けると、外の街路樹が濡れた葉を揺らしている。
昨日までの湿った匂いが、少しずつコーヒーの香りに置き換わっていく。
「今日は、静かな一日になりそうね」
私はカウンターの下を整理していた。
いつも通り、器具や豆の袋を片づけていると——
奥の棚から、ひとつの古びたノートが出てきた。
表紙には、金の文字でこう書かれている。
《カオスフレーム創業記録》
◇ ◇ ◇
ページをめくると、丁寧な文字が並んでいた。
“初代詩人”と名乗る人物の筆跡。
レシピと、日付と、簡単な詩の断片。
“豆は火を恐れず、
水は音を選ばず。
それを人が味わう。”
なんて美しい文章だろう。
私は夢中で読み進めた。
けれど——最後のページに来たとき、筆跡がふっと途切れた。
そこには、真っ白な一枚が残されていた。
跡も、インクの染みもない。
ただ、紙の中央に小さく“□”の印が押されている。
「……空白の、レシピ?」
◇ ◇ ◇
「詩人殿、それは何だ?」
がしゃん、と音を立ててポエールが現れる。
足元のスライムが、ぷにぷにと床を押しながら跳ねている。
「おはようございます。ちょうどいいところに」
「また新たな発見か!」
「たぶん、創業当時のノートみたいです。でも、最後のページだけ真っ白で……」
「真っ白? つまり“未完”か!」
「そう。でも、なぜわざわざ白紙のまま残したのかしら」
スライムが“ぷにぃ”と鳴いた。
まるで「何かが足りない」とでも言いたげに、床をわずかに震わせる。
◇ ◇ ◇
そこへ、馬面がひょいと覗く。
「おい詩人、また古書か」
「オグリさん、見てください。創業記録だそうです」
「ふむ。……この紙、香りが違うな」
「香り?」
「年月を経た香りじゃない。“昨日のページ”の匂いがする」
「昨日……?」
私はもう一度、白紙のページに指を触れた。
確かに、インクの残り香がわずかに漂っている。
まるで誰かが、ついさっきまで何かを書こうとして——やめたような。
「詩人、これはお前のページかもしれんな」
「え?」
「過去の詩人が、後の詩人に託した“空白”。
それを埋めるのが次の詩人の務めだ」
◇ ◇ ◇
オグリの言葉を聞きながら、私はノートを見つめた。
そこには確かに、余白が“待っている”ように感じた。
誰かが書くことを、何年も、何十年も待ち続けているように。
「……このカフェには、いくつ詩が生まれたのかしら」
「詩人の数だけ、香りがあったのだろう」
「それを、全部記録できたらいいのに」
私はペンを取り、白紙の中央に一行だけ書いた。
“この香りは、いまを生きる詩人のもの。”
書き終えた瞬間、ふわりと風が吹いた。
ノートのページが一枚、勝手にめくれる。
そこには、誰も書いていないはずの一文が浮かび上がった。
“それでいい。
次の詩人へ——香りをつなげ。”
◇ ◇ ◇
私は静かにノートを閉じた。
ページの間から、温かいコーヒーの香りが立ちのぼる。
外では再び小雨が降りはじめていた。
まるで、カフェの記憶が空から戻ってきたみたいに。
◇ ◇ ◇
夜。
帳面に今日の一行を書き残す。
“空白は、言葉を待つ器。
それを埋めるのは、
詩人の息。”
インクが乾くころ、カウンターの隅でオグリが新聞を折った。
「詩人。お前のページ、ちゃんと香ってるぞ」
「……ありがとうございます」
私は笑って、ランプの火を少しだけ明るくした。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第36話「詩人と消えたブレンド」
「翌朝、棚から一種類の豆が忽然と消えた。
残されたのは、“苦みを知らぬ香り”という小さなメモ——」




