第33話 詩人と夢の帳
夜のカフェ<カオスフレーム>は静かだった。
カウンターに灯るランプの光が、カップの縁を柔らかく照らしている。
外では霧が立ちこめ、街灯が滲んでいた。
昼間に買った“記憶の小瓶”を、私はカウンターに置いて見つめた。
中で微かに揺れる光が、まるで呼吸しているように見える。
「……ねえ。あなた、何を覚えてるの?」
問いかけても、当然返事はない。
けれど、次の瞬間。
——瓶の中の光が、ふっと明るくなった。
◇ ◇ ◇
気づいたとき、私は見知らぬ場所に立っていた。
白い霧が足元を這い、
地平の向こうまで、無数の書棚が並んでいる。
その棚のひとつひとつに、名前のない詩が眠っていた。
「ここは……?」
「——夢の帳の中だよ」
あの声。
振り向くと、そこに“名を持たぬ客”が立っていた。
フードの奥の瞳が、穏やかに微笑んでいる。
「久しぶりですね」
「まだ一日ぶりだ」
「夢の中で会うには、ちょっと早すぎません?」
「夢は時間の帳。眠りが深いほど、再会も早い」
◇ ◇ ◇
彼は歩き出し、私を棚のひとつへ導いた。
そこには、古びた詩集が並んでいた。
背表紙には、うっすらと光る刻印——昨日の銀貨と同じ紋章。
「“詩の国”の記録だ」
「滅んだはずの?」
「滅びとは、忘れられること。
けれど、忘れられたものは夢に流れ着く」
私はそっと本を開いた。
文字は消えかけていたが、まだ読める。
“風を売る市があった。
記憶を束ね、心を計る秤があった。
そして、詩人がいた。
言葉を淹れて、心をあたためる者が——”
指先が震えた。
まるで、誰かが私の手を導くように。
「……これ、まさか」
「そう。君の記録だ」
「わたしの?」
◇ ◇ ◇
“名を持たぬ客”は微笑んだ。
「君は“詩の国”の最後の詩人。
この世界で、再び詩を淹れるために転生した」
「そんな、だって私はただの——」
「詩人はいつだって“ただの誰か”から始まる。
言葉を失った世界に、香りを戻す。それが君の役割だ」
静寂。
遠くの棚で、一冊の詩集が光を放つ。
まるで心臓の鼓動みたいに、静かで確かな光。
「……でも、あなたは?」
「私は、名を捨てた詩人。
君が残した“未完の詩”を探しに戻ってきた」
彼の声は少しだけ震えていた。
私の胸も、同じように震えた。
◇ ◇ ◇
「ねえ」
私は小さく呟いた。
「あなたの名前、思い出したい」
「名は風と共に流れた。けれど——」
彼は私の掌を取った。
指先がふれて、光が弾ける。
“詩は、名よりも永く生きる。”
言葉が耳の奥で響いた。
そして、世界がゆっくりと滲んでいく。
◇ ◇ ◇
目を覚ますと、
カウンターの上に小瓶が割れていた。
中の光はもうない。
けれど、ノートの上に知らない詩が書かれていた。
“風は名を呼び、
香りは帰る。
その詩を誰が読むのだろう。”
インクはまだ乾いていない。
私は小さく笑って、ページを閉じた。
「——おはようございます、“名を持たぬ客”」
窓の外、朝の光がカフェの看板を照らした。
<カオスフレーム>の文字が、まるで少し輝いて見えた。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第34話「詩人と雨音のブレンド」
「朝を迎えたマリエルのもとに、小雨が降り始める。
雨の音を聴きながら淹れるブレンドは——まるで夢の続きを溶かすようで。」




