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第32話 詩人、記憶の市場へ行く

昼下がり。

 カフェ<カオスフレーム>のカウンターに、

 昨日の“銀貨”がまだ置かれていた。


 どれほど磨いても落ちない古い刻印。

 見慣れぬ紋章——

 翼のような模様と、中央に浮かぶ“目”の意匠。


 私はその銀貨を掌に乗せながら呟いた。

「……どこかで見たことがあるような……」


◇ ◇ ◇


「詩人殿、それはなんだ?」

 がしゃん。

 ポエールが鎧の音を響かせて入ってくる。

「昨日のお客さんが残していったんです。知らない紋章で……」

「ふむ、これは……“記憶の印章”に見えるな」

「記憶の?」

「うむ。遥か昔、“記憶を売る市場”なる場所があったと聞く。

 人は忘れたい過去を手放し、欲しい記憶を買ったという」


「そんな市場……本当に?」

「混沌の街では、何でも売られるらしい」


 混沌の街。

 いつも通うこのカフェの通りとは違う、“まだ踏み入れたことのない路地の向こう側”。

 転生して以来、この世界の“外縁”には、まだ一度も行ったことがなかった。


「……行ってみようかな」


◇ ◇ ◇


 午後の光が傾くころ、私は銀貨をポケットに入れて街を歩き出した。

 <カオスフレーム>の看板が遠ざかるたび、

 心の中の鼓動がひとつずつ強くなる。


 石畳の先、霧のかかった裏通り。

 看板には、読めない文字。

 通りすがる人々は、みんな何かを探しているような目をしていた。


「詩人さん、記憶を買う?」

 細い声がした。

 振り返ると、フードをかぶった少年がいた。

 片手には小さな木箱。


「ここ、“記憶の市場”?」

「そう。見たこともない記憶、思い出せない夢、心の匂い——なんでもあるよ」


◇ ◇ ◇


 私は彼に銀貨を見せた。

「これ、どこから来たものか分かる?」

 少年は目を丸くして、それを慎重に手に取った。

「……この刻印。古いね。ここじゃもう使われてない」

「じゃあ、どこで?」

「“詩の国”のものだよ」


「詩の……国?」


 少年は少し寂しそうに笑った。

「百年前に滅んだ。言葉が枯れたんだ」


◇ ◇ ◇


 市場の奥へ進む。

 露店には、瓶に詰められた光が並んでいた。

 “初恋の記憶”“母の声”“勇者の敗北”“眠れなかった夜”——

 タグのひとつひとつが、まるで詩の題名みたいだった。


「詩人さんのは、どんな記憶?」

 少年の問いに、私は少し考えてから答えた。

「……誰かに渡した言葉、かな」

「誰に?」

「まだ、思い出せない人」


 少年は頷き、小瓶をひとつ差し出した。

 中で、小さな光が瞬く。


「これ、“名前をなくした記憶”」

「名前を……?」

「持つと、誰かを思い出すかもしれない。けど、誰のことかは分からない」


 私はしばらく迷い、銀貨を置いた。

「……これで、いい?」

「足りるよ。だって、それ、本来の持ち主が君なんだ」


◇ ◇ ◇


 店を出たとき、空にはもう星が出ていた。

 胸ポケットの中で、小瓶が小さく光る。

 その光が、まるで心臓の鼓動と重なっていた。


「詩の国、か……」

 誰のものか分からない記憶を抱えて歩く。

 けれど、不思議と怖くはなかった。


◇ ◇ ◇


 夜。

 <カオスフレーム>に戻ると、

 カウンターの上には新しい花が一輪、そっと置かれていた。

 昨日と同じ花、でも包み紙が違う。


「……また、あなた?」


 私は花の隣に小瓶を置き、ノートを開いた。


“記憶を買う市場で、

思い出したのは——

まだ知らない誰かの香り。”


 ペン先から、静かな詩が流れた。

 ページの上で光が滲み、まるで瓶の中の光と共鳴しているようだった。


◇ ◇ ◇


――次回予告――

第33話「詩人と夢の帳」

「その夜、マリエルは夢を見る。知らない街、知らない詩。

 けれど、その声は——“名を持たぬ客”のものだった。」

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