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第31話 詩人と来訪者、名を持たぬ客

朝の光がまだ淡く、カフェ<カオスフレーム>の窓に細い筋を落としていた。

 昨夜の雨が去り、空気はどこか澄んでいる。

 豆を挽く音が、いつもより少し静かに響いた。


「今日も、いい香りね」

 私は独りごちてカウンターにカップを置く。

 オープンのベルがまだ鳴っていない時間。

 この静けさは、私だけの詩の時間でもある。


 ——そのときだった。


 ドアが、そっと鳴った。

 誰も開けていないのに、鈴が一度だけ“ちりん”と揺れた。


◇ ◇ ◇


 振り向くと、そこにひとりの旅人が立っていた。

 フードを深く被り、顔の半分が影に沈んでいる。

 服は砂を含んでいて、遠くを歩いてきたことだけは分かる。


「……いらっしゃいませ」

 声をかけても、旅人は何も言わない。

 ただ、ゆっくりとカウンターに歩み寄り、低く呟いた。


「詩を一杯」


「……え?」


「詩を、一杯。あたたかいのを」


 その声はどこか懐かしく、どこか冷たかった。

 私は思わず、笑ってしまった。

「はい、詩ですね。ブレンドでよろしいですか?」

「あなたの香りに任せる」


◇ ◇ ◇


 湯を注ぐ。

 カップの中で泡が膨らみ、静かに沈む。

 その間、客はじっとこちらを見ていた。

 フードの奥からの視線が、奇妙に透き通っている気がした。


「旅の方ですか?」

「……旅か。そう呼ばれたこともあった」

「“も”?」

「名を持たぬ者には、名のある日々は遠い」


 詩人じみた言い回しだ。

 でも、その言葉の奥に、ほんの少しの寂しさが混じっていた。


「名前、ないんですか?」

「名は風に流した。呼ばれるたび、重くなるから」


 私はカップを差し出した。

「じゃあ、この一杯の間だけ——“客人”って呼びますね」

「……悪くない名だ」


◇ ◇ ◇


 客人はゆっくりとカップを傾けた。

 その仕草が不思議なほど滑らかで、まるで時の流れごと動かしているようだった。


「温かい。けれど、懐かしい味だ」

「懐かしい?」

「この香り、昔、遠い場所で……」

 彼は言葉を途中で止めた。

 カウンターの木目を指でなぞり、微笑む。

「詩人の店は、どこにでも同じ香りがあるものだな」


 私は小さく息を呑む。

 ——この世界に、他にも“詩人の店”があるの?


◇ ◇ ◇


 客人は少しの間、静かにカップを見つめていた。

 湯気が薄れていくその中で、声を落とす。


「詩は、香りと似ている。

 誰のものでもなく、けれど確かにそこに在る」


「……詩、書かれるんですか?」

「昔は。けれど、もうペンを持てない」

「どうして?」

「書くたびに、名前が生まれる。

 名を失った今の自分には、それが——痛い」


 私は何も言えなかった。

 ただ、カップを握る手の温度だけが現実だった。


◇ ◇ ◇


 客人はやがて立ち上がり、

 静かに一枚の銀貨をカウンターに置いた。

 古びて、見たことのない刻印がある。


「これは……」

「詩の代金だ。次に会うまで、香りを絶やすな」

「次に……?」


 返事を聞く前に、客人は扉を開けた。

 ベルが鳴る。

 朝の光の中に、影がひとつ、溶けていった。


◇ ◇ ◇


 カウンターには、銀貨と冷めかけのカップ。

 私はノートを開き、今日のページに書く。


“名を持たぬ客。

残した香りは、

名前より確か。”


 ペン先が震えた。

 風が窓を叩く音が、一瞬だけベルの音に重なった。


◇ ◇ ◇


――次回予告――

第32話「詩人、記憶の市場へ行く」

「旅人の残した銀貨。その刻印をたどって、マリエルは“記憶を売る市場”へ。詩と記憶が交差する、少し不思議な午後——。」

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