第29話 詩人、雨の日に傘を忘れる
空が低い。
朝から湿った風が街を撫でていた。
カフェ<カオスフレーム>の窓ガラスを、ぽつぽつと雨粒が叩く。
その音が、まるで小さなドラムのように静かなリズムを刻んでいる。
「今日は静かになりそうだなぁ」
私はカウンターに肘をつき、外の景色を眺めた。
傘の群れが、通りを行き交う。
そんな中、気づく。
——私、傘を持ってきてない。
◇ ◇ ◇
「詩人殿、また忘れ物か?」
がしゃん。
ポエールが入ってきた。鎧はすでに雨でびしょ濡れだ。
「いや、またって言われる筋合いは……ありますね」
「勇敢なる雨浴びである!」
「風邪ひきますよ」
スライムがぴょん、と跳ねてポエールの鎧をぬぐう。
その動きが、雨粒よりも優しく見えた。
「今日も手伝ってくれるんだね」
「ぷにぃ」
「えらいなぁ。……私もちゃんと傘持ってくればよかった」
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
雨脚は強くなる一方だった。
通りの景色は灰色に沈み、ガラス越しの世界が滲んでいく。
「詩人さん」
低音。
オグリ・ジュンがカウンターに座っていた。
いつの間にか来ていたらしい。
「雨の日は、音が変わる」
「音?」
「屋根を叩く音、地を打つ音、心に落ちる音」
「詩的に言ってるのか、哲学的に言ってるのか……」
「混沌的だ」
「ですよね」
彼は新聞を広げる代わりに、今日は詩集を開いていた。
濡れた指先でページをめくり、低い声で呟く。
“雨の音、
詩の声に似て、
胸の奥を叩く。”
静かに、カフェの空気がその一節に溶けた。
◇ ◇ ◇
やがて、ドアが勢いよく開く。
ぱつん。
「うわぁぁ! びっしょびしょー!!」
マーリンがずぶ濡れで突入した。
ローブが肌に張りつき、腕の筋肉が強調されている。
「マリエルぅ! 傘、飛んでっちゃったぁ!」
「飛ぶほどの雨じゃないですよ!?」
「風の魔法の練習してたらさ……あっ」
「それはもう自業自得です!」
スライムがとことこ寄ってきて、マーリンのローブの裾を拭う。
「ぷにぃ」
「ありがと〜! 可愛いねぇ!」
「スライムくん、今日大活躍ですね……」
◇ ◇ ◇
夕方になっても、雨は止まなかった。
私はため息をつき、カウンターの端に座り込む。
「帰れないなぁ……」
「詩人殿、ここが家ではないのか?」
ポエールの言葉に、私は思わず笑った。
「……そうかもしれませんね」
その時だった。
オグリが立ち上がり、静かに傘を差し出した。
黒い布地、長い柄。
彼の背丈に合わせたものだから、少し大きい。
「使え」
「えっ、でも……」
「詩人は濡れても詩的だが、風邪をひくと読めない」
「……ありがとうございます」
手にした傘は、少し温かかった。
雨の匂いと、焙煎の香りが混ざる。
◇ ◇ ◇
私はドアを開け、雨の外へ一歩踏み出した。
傘の内側に落ちる雨音が、優しく耳を包む。
街の光が滲み、カフェの灯が背中に残る。
その瞬間、胸の奥でひとつの言葉が生まれた。
“差し出された傘は、
混沌の中の、
一滴の優しさ。”
私は振り返って、微笑んだ。
「おやすみなさい、みんな」
店のベルが、小さく答えるように鳴った。
◇ ◇ ◇
閉店後、帳面に書く。
——雨の日の詩は、香りで書く。
——優しさは、静かに差し出される傘のかたち。
インクが雨音のように滲んだ。
◇ ◇ ◇
――次回予告――
第30話「詩人と夜明けの一杯」
「雨の翌朝。カフェに差し込む光と、少し冷めたブレンドの香り。——詩人の胸に、また新しい詩が生まれます」




