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紅に朽ちる  作者: ANONYMAS
2/5

契約

俺は恐る恐る玄関から部屋の中へ足を踏み入れた。

そしてちらりと床の方を見た。

そこに倒れているのは、どう見ても──


「ねえ……これ、母さんだよね。」


声が震える。父さんは笑顔のまま首を横に振った。


「……いや、父さん、これ……絶対に母さんだ。」


俺がそう言いかけた瞬間、父さんの顔から笑みが消えた。

代わりに、悪魔のように歪んだ恐ろしい形相でこちらを睨みつけてくる。


俺の中でさっきまで塞ぎ込んでいた恐怖という感情が、一気にこみ上げてきた。

寒気が背筋を駆け上がる。


──逃げなきゃ。


頭で考えるより先に、俺の体は動いていた。

玄関を飛び出し、夜の街を無我夢中で走る。


「はぁっ、はぁっ……なんだよ……あれ……父さんが……母さんを殺した……?

いや、そんなはずない……だって昨日まで、あんなに仲良しだったじゃないか……。」


震える足で立ち止まったとき、昨日の夕食風景が脳裏に浮かんだ。

笑顔で並んで座る父さんと母さん。

あれが全部、嘘だったのか。


「違う……違う……誰かが殺したんだ……父さんじゃない……誰かが……父さんに罪を擦り付けたんだ……そうだ……そうに決まってる……。」


俺は必死にそう思い込み、交番へ駆け込んだ。


「どうしたんだ坊や。そんなにびしょ濡れで……。」


「……あの……母さんが……家で……血まみれで倒れてたんです……。」


「えっ……?! 本当か……。今すぐ行こう。」


警官が慌てて無線を取り出す。

その声を聞きながら、俺は震える手で制服の裾を握り締めた。


──お願いだ。

これは夢であってくれ。


警察が俺の家に着いたとき、玄関の扉は開いていた。


「失礼します!」


警官が大声を出しながら中へ入っていく。

俺も恐る恐るその後を追った。


台所からは、何かを叩く鈍い音が聞こえた。

トン、トン、トン……。


音のする方を覗くと、父さんがまな板の上で大きな肉の塊を切っていた。

無表情で、ただ淡々と包丁を振り下ろしている。


「父さん……?」


呼びかけると、父さんはこちらを見た。

その顔は真っ白で感情がなく、ただ口元だけが僅かに笑っていた。


まな板の上には、切り刻まれた母さんの腕と見覚えのある指輪が転がっていた。

まるで豚肉でも切るかのように、父さんは次々と骨を外し、肉を切り分けていく。


「ちょっと! これは……これは一体……!」


警官が声を上げると、父さんはゆっくりと振り返った。


俺はただ、その光景を呆然と見つめることしかできなかった。


「奥さんを殺したのは……あなたですね。」


取り調べ室で、警察が静かに告げた。

父さんは机に手を置き、ゆっくりとうなずいた。


俺は取り調べ室の窓越しに、その様子を呆然と見ていた。


「なんで……なんでだよ父さん……。」


俺はあの日からずっと、自分に言い聞かせていた。

父さんは母さんを殺してなんかいないって。

誰かが父さんに罪を擦り付けたんだって。


でも、父さん自身がそれを否定した。


「どうして……どうして……母さんを……。」


涙が溢れて止まらなかった。

警察官が俺の肩に手を置いた。


「お父さん、責任能力はあるようだ。これから裁判になるだろう。」


父さんは取り調べ室の中で、静かに笑っていた。

あの時と同じ、優しい笑顔で。


「俺が……食べさせてあげられなかったから……。」


誰に向けて言っているのかも分からない独り言が、静まり返った部屋に響いていた。


あの事件は、俺がまだ小学四年生のときだった。


父さんが母さんを殺したあの日から、すべてが変わった。


事件はすぐにニュースになった。

『妻を殺害し解体 小学四年の息子が発見』

そんなテロップがテレビに映し出されていた。


父さんには懲役二十年の刑が言い渡されたけど、

判決が出る前に、独房で首を吊って死んだ。


ニュースではこう言っていた。


『被告は裁きを受ける前に自殺。ネットでは「罪を償わず死ぬなんて卑怯」と非難の声が……』


卑怯。償っていない。

世間はそう決めつけた。


学校に行けば、周りは俺を見るたびにひそひそと噂した。


「人殺しの息子だ。」

「やっぱりあの家、おかしかったもんね。」

「怖い、近寄らないでよ。」


そう言われるたび、心が冷たく凍りついていった。


結局、俺は母さんの実家に引き取られることになった。

母方の祖母が一人で住む、古くて暗い家。

仏間には、母さんの遺影が飾られていた。


「これからは、ばあちゃんと二人きりだね。」


祖母はそう言って微笑んでくれたけど、

その笑顔を見るたびに、

あの日の母さんの冷たい笑顔が思い出されて、

胸が締めつけられた。


あれ以来、俺は人に期待することをやめた。

優しい言葉も笑顔も、全部嘘に見えたからだ。


祖母の家に預けられてから、俺はずっと勉強していた。


学校に行けば、相変わらず周りは俺を「殺人者の息子」と呼んだ。

誰も近寄ってこない。

でも、家に帰れば、ばあちゃんがいつも優しく迎えてくれた。


「大丈夫だよ。あんたは悪くないんだから。」


そう言って頭を撫でてくれる、その手の温もりに、

俺は何度救われただろう。


ばあちゃんは貧しい年金暮らしだったけど、

俺のために学習塾にも通わせてくれた。


「勉強は裏切らないからね。あんたならできるよ。」


その言葉を信じて、俺は勉強だけを支えに生きてきた。


そして中学を卒業し、俺は名門・私立葵城学園高校の特待試験に合格した。


合格通知を受け取った夜、

ばあちゃんは心から嬉しそうに笑ってくれた。


「やったねぇ……お母さんもきっと喜んでるよ……。」


その日の夕食は、ばあちゃんが奮発してくれたスーパーの半額寿司だった。

一貫一貫を噛みしめながら、俺は心の底から思った。


(絶対に、俺がばあちゃんを楽にしてあげる。)


でも――。


入学式の前日、

ばあちゃんは朝、布団の中で冷たくなっていた。


眠るような顔だった。


泣きながら救急車を呼んだけど、もうどうしようもなかった。


誰もいない家に、ただ俺ひとりが残された。


(なんで……今なんだよ……。)


制服を握りしめて泣いたあの夜、

俺は心に決めた。


(もう誰も信じない。誰も期待しない。

 全部自分のためだけに生きる。それが一番裏切られないから。)







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