第4話
朝露が窓辺に光る頃、私はまだ眠れずにいた。
──あの夜の、熱いキスのせいで。
庭園のベンチでフィルに抱き締められたときの体温、焦るような吐息、そして唇が触れたあの瞬間。
思い出すたび、胸の奥がじわりと疼いて、まぶたを閉じることさえためらってしまう。
「……ん……」
カーテン越しに朝の光が差し込むと同時に、扉の向こうから控えめなノックの音が響く。
「お嬢様。お目覚めの時間です」
低く穏やかな声が、胸の奥に染みるように届いた。
扉が静かに開き、フィルリスが丁寧に朝の身支度を整えにやってくる。いつもと変わらぬ所作。けれど、私の心はどこか落ち着かなかった。
フィルが、私の背後に立ち、髪を梳かす。
するりとブラシが髪を滑るたび、くすぐったいような、気持ちを見透かされるような心地がする。
「昨夜は……よく眠れましたか?」
「……あまり」
「左様でございますか。それは……少し暑かったからでしょうか」
ほんの僅かに微笑む声。
……わかっていて聞いている気がして、悔しい。
それから、彼の指がふいに私の耳元に触れた。落ちた髪をそっと避けるだけの仕草。
それなのに、指先が頬を掠めただけで、心臓が跳ねた。
「っ……!」
どうしてこんなにも、意識してしまうの……。
「お嬢様。そろそろ夜会の衣装選びのお時間です。
本日、私が手配いたしましたブティックへ、ご案内いたします」
「……ブティック?」
「ええ。ルクシオルでも、特に選び抜かれた職人の揃う名店です。
お嬢様のご趣味も存じておりますので、安心してお任せを」
にこりと笑ったその顔は、いつも通りの完璧な執事の仮面。
なのに、どこか意地悪な光が、琥珀色の瞳に揺れていた。
ブティックへ着くと、彼は手際よく数点のドレスとアクセサリーを選び、私の前に並べてみせた。
「……これが、第一候補です」
彼が差し出したのは、落ち着いた光沢を纏う、淡いゴールドと深いアンバーのグラデーションドレス。
首元にはアンバーとイエローの宝石を連ねたネックレスと、同じ色合いのイヤリング。
「……ずいぶん、琥珀色尽くしね」
「お嬢様には、琥珀色がお似合いですから」
その瞳と同じ色。
彼の声はどこまでも穏やかだったけれど、その言葉には確かに“意図”があった。
「……それって、あなたの瞳の色でしょ」
「……お気づきになりましたか」
わずかに笑う彼の声が、どこか満足そうで、私の胸がまた高鳴った。
「夜会では、このドレスをお召しください。
誰の目にも、お嬢様が“どなたのもの”か伝わるように」
「っ……!」
冗談めかして笑うでもなく、淡く、静かに告げるその声音に、心が釘付けになった。
彼の瞳が、ドレスの琥珀とまったく同じ光を宿して、私を見つめていた。
夜会の日が、やってきた。
選ばれたのは、あの日フィルリスが薦めた、琥珀色のドレス。
落ち着いた金の光沢が、動くたびにゆるやかに揺れて、まるで琥珀の光を纏っているかのようだった。
「……本当に、これでいいのね?」
支度を整えながら、私は鏡に映る自分に問いかけた。
耳元に揺れるのは、フィルリスが選んだアンバーのイヤリング。
肌に沿うようなネックレスの宝石は、彼の瞳とまったく同じ色――。
(こんなの、まるで……)
“自分の色で塗りつぶした” かのような装いに、少しだけ胸が騒ぐ。
会場に足を踏み入れると、すぐに視線が集まった。
ルクシオル王国の上流階級が集まる華やかな夜会。けれど、今日は何かが違った。
まるでその中心に、私を置こうとするように、人々の目がこちらへと注がれる。
「ルルティアーナ嬢、今日の装いは……まさにため息が出るほどに、美しいですね」
そう声をかけてきたのは、隣国からの使節団の一人である若い伯爵子息。
彼は柔らかく微笑みながら、グラス片手に私を称賛した。
「特にそのドレス……琥珀色と貴女の雰囲気が見事に調和している。
まるで、選ばれるべくして纏われたかのようだ」
「っ……」
その言葉に、頬が一気に熱を持つ。
恥ずかしいほど視線を逸らしてしまった自分に気づき、慌てて扇子で顔を隠す。
(……違う。褒められたのが嬉しいんじゃない……この色は、フィルの……)
言葉にできない想いが、喉の奥に詰まって溢れ出せない。
なのに、心はどこか嬉しがっていた。
「失礼。お嬢様」
その時、背後から静かな声が届く。
振り返れば、フィルリスがいつもの穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「ティーカップの配置に乱れがありましたので、一度退出しておりました。
……ご挨拶が遅れて、申し訳ありません」
「……っ、フィル……」
彼の瞳が、一瞬だけ伯爵子息を見た気がした。
それは、執事らしい敬意をたたえながらも、微かに何かを牽制するような色を帯びていて――
(まるで、“自分のものに手を出すな”って、言ってるみたい)
そんなわけ、ないはずなのに。
ふと、そのとき。
胸の奥に、鈍い痛みが走った。
「……ぁ……っ」
呼吸が浅くなり、視界が霞む。
鼓動が高鳴り、頭の奥が焼けるように熱を帯びていく。
「っ……お嬢様!?」
誰かの呼びかけが遠くに聞こえる。けれど、それを最後まで聞き取ることもできなかった。
(……まじない……?)
その瞬間、私は倒れそうになる体を支える腕の中にいた。
温かく、しっかりとしたその感触。
「……っ、フィル……!」
彼の声が、すぐ耳元に落ちた。
「少し、奥へ参りましょう。……見られない場所で」
フィルの腕に抱えられ、会場を離れ、庭園の隅にある木陰の東屋へと運ばれていく。
心臓が痛い。苦しい。
でも、彼の体温に包まれているだけで、どうしようもなく、安心してしまう自分がいる。
「……フィル……」
喘ぐように名前を呼ぶと、彼は私の頬にそっと手を添えた。
「……このままでは、また発作が……お嬢様、口づけを――」
言葉を言い終えるより早く、私は首を傾け、彼の胸元に顔を埋めた。
「……お願い、早く……して」
震える唇でそう告げた瞬間、彼の瞳が揺れた。
そして、彼の手が頬を支え、私の顔を上げる。
──夜空の下、誰にも見られぬ庭園の東屋で。
彼の唇が、私のものを塞いだ。
ひときわ熱く、甘く、そして何より深い――
契約の口づけ。
それは、ただの“儀式”ではなかった。
あの夜のように、心も、体も、すべてを重ねるような熱が、そこにあった。
唇が離れる瞬間、夜風がふたりの間をゆるやかに通り抜けた。
けれど、その風すら肌に届かないほど――
私の意識は、フィルリスに奪われていた。
「……はぁ……」
思わず漏れた吐息さえも、彼の胸元に溶けていく。
息が苦しかったはずなのに、今は――その理由が、まるで別のものに変わっている気がして。
彼の指が、そっと私の頬をなぞった。
「お加減は、いかがですか?」
「……うん。もう、苦しくない」
答える私の声は、少し掠れていた。
けれど、フィルはそれに何も言わず、ただ優しく微笑んだ。
……どうして、そんな顔ができるの。
私の体を支えるその腕は、少しも震えず、穏やかで。
けれど、さっきの口づけには、確かに――抑えきれない熱があった。
「……フィル」
「はい、お嬢様」
「ねえ……どうして、あなたはそんなに冷静でいられるの?」
「……え?」
「……私は、こんなに……こんなに、動揺してるのに……っ」
唇に残る熱も、胸を締めつける鼓動も、全部、彼がくれたものなのに。
彼はいつもどおりに振る舞って、淡々と、執事として私を支えてくれる。
それが、悔しくて、切なくて、苦しい。
フィルリスはしばし黙り込んだ。
そして、ほんの僅かに目を細めたあと、静かに言った。
「……お嬢様の前では、私はいつでも“冷静”でいなくてはなりません」
「……なに、それ」
「それが、執事としての私の務めですから」
「そんなの、今は……今だけは、いらないわ」
思わずそう零した声が、夜の静寂に溶けて消える。
沈黙が落ちた。
長く、張り詰めたような沈黙。
でも、逃げ出すような気配はどこにもなくて――
その代わりに、フィルリスが、ゆっくりと私の頬へ顔を寄せてくる。
「……お嬢様が、望まれるのなら」
囁きながら、彼の唇が、私の耳元すれすれを通る。
「この身のすべてを、貴女のために焦がしましょう」
背筋が震えた。
それは、今まで見たことのない、フィルリスだった。
忠誠ではなく、礼節でもなく、ただひとりの男として――彼の内にある“熱”が、声に滲んでいた。
私の胸は高鳴るばかりで、言葉も返せず、ただ見上げるしかできなかった。
……怖いほど、優しい。
そして、抗えないほど、甘い。
夜風が、ふたりの距離を見守るように、そっと草木を揺らしていた――。
けれど。
ふいに、彼の手が私の顎に添えられた。
「……フィル?」
その瞬間の瞳が、違った。
いつもの穏やかで静かな光ではなく、深い琥珀が熱に濡れ、私を喰むように見つめていた。
「お嬢様……今夜だけは、私をお許しください」
「え……、っ!」
呟くより早く、唇が塞がれる。
甘く、深く、そして熱い――。
まるで、呼吸さえも奪い去るような、激情に濡れた口づけだった。
押しつけられるような強さではないのに、逃げ場がない。
彼の片腕が私の腰をそっと引き寄せ、身体の奥に火が灯る。
触れ合った唇の温度、喉奥に落ちていく甘い吐息、熱に混じる微かな震え。
「ん……っ」
思わず洩れた声に、彼の舌先がわずかに触れる。
それだけで、身体が跳ねそうになるほど、敏感になっていた。
しばらくして、ようやく唇が離れた。
「……お嬢様、」
彼の声がかすかに掠れていた。
理性を保ったぎりぎりの線、その一歩手前にある男の熱が、そこに滲んでいた。
「申し訳ありません……けれど、もう……」
フィルリスはゆっくりと目を伏せた。
「もう、これ以上は、我慢できる自信がありません」
その一言に、胸が跳ねた。
彼が、私の執事ではなく、“一人の男”として、私を見ていると――そう、感じてしまった。
静かに、けれど深く刻まれた口づけの余韻に、私は小さく震えるように目を閉じた。