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第3話


――目覚めた瞬間、甘やかな香りが鼻をくすぐった。


寝ぼけたまま瞬きを繰り返しながら、ふわりと漂う香りの正体を探す。

それは、どこか懐かしく、心を落ち着かせる香りだった。


「……ん……?」


微かに身じろぎすると、頬に触れるのは滑らかなシーツの感触。

意識が覚醒しないまま、私はもう一度、目を閉じかける。


しかし――


「お嬢様、お目覚めの時間です」


静かに、けれど確実に私を現実へ引き戻す声が、耳元に落とされた。

それだけで、心臓が跳ねる。


ゆっくりと目を開けると、視界の端に、朝の陽光を背にしたフィルリスの姿が映った。


琥珀色の瞳が、いつものように穏やかに私を見つめている。

だというのに、昨夜の記憶が脳裏を過ぎった瞬間、私の心はたちまち乱れた。


――契約の維持のために、彼と交わした口づけ。

その感触が、まだ唇に残っている気がする。


「……まだ、眠いの」


思わずそう呟くと、フィルリスは一瞬だけまばたきをした。

次の瞬間、ゆるやかに微笑む。


「そう仰ると思い、お茶をご用意いたしました」


その言葉とともに、彼の指が私の耳元に触れた。


「っ……」


驚く間もなく、さらりと髪を梳かれる。

いつもされていることなのに、今朝はその動作がやけにゆっくりで、指の熱が妙に意識される。


――心が、落ち着かない。


「お嬢様の髪は、朝の光に照らされると、まるで星の輝きのようですね」


その言葉に、私は反射的に視線を逸らした。

耳元で囁かれるその声音が、ひどく優しくて。

まるで――昨夜と同じ口づけの温度を孕んでいるようで。


「……お世辞が上手になったのね」


そう言ってごまかすように小さく笑ってみせると、フィルリスは何も言わずに微笑んだ。

変わらない。いつもの優しい、完璧な微笑み。

なのに、なぜだろう。今朝の彼は、どこか――ずるい。


ふと、フィルリスの指先が私のうなじに触れた。

首筋の結び目を解くように、そっとリボンを外す仕草。

その何気ない所作が、まるで口づけに続く前奏のようで。


「っ……やっぱり、いつもより近い……」


ぼそりと呟いた声が聞こえたのか、彼の指がわずかに止まる。

けれどすぐに、何もなかったかのようにまた動き出した。


「お嬢様のご準備が整いましたら、庭園の方へ参りましょう。

 本日のお茶菓子は、昨夜焼いておいたサブレ・ヴァニーユです」


その言葉に、胸の奥がふわりと緩んだ。


「……本当に、フィルは器用ね。執事にしては完璧すぎるわ」

「光栄です。ですが――」


彼は私の髪に最後の飾りを留めながら、静かに言った。


「貴女に笑っていただけるのなら、私はどんな役でも、何にでもなれますよ」


ぞくり、とした。


その声音は確かに優しくて、どこまでも穏やかなのに、その奥にある感情を覗き込んではいけない気がして、私はつい、目を伏せてしまった。



そして、そんなやり取りをしながら庭園へと向かう。

――数日間、日課となった“口づけ”の契約を、今日も無事に交わしたことに安心しきって。


けれど、このあとの昼下がり。

私はようやく思い知ることになる。


「一日一度」

その“たった一度”を逃した時――

この契約が、ただの“儀式”ではないことを。


そして、それは唐突に、私の身体を襲ったのだった――。



昼下がりの陽光は、春の柔らかな風と共に庭園に差し込んでいた。

白い小さなテーブルに並べられた紅茶の香りと、焼きたてのサブレ・ヴァニーユの甘い香り。

私はふうっと小さく息を吐き、椅子にもたれかかる。


(……さっきまでのフィルの距離感、やっぱりおかしかったわよね)


頭の片隅でそう思いながら、私はカップを手に取る。

けれど――


「……っ……あ、ぐ……」


突如として、胸の奥が締め付けられた。

さっきまで穏やかだった景色が、急に霞む。

視界の端が歪み、カップがかすかに震えた。


(……な、に、これ……苦しい……っ)


慌てて胸元を押さえる。

けれど、内側から抉られるような痛みが走り、息すら吸うのが困難だった。


「お嬢様っ!? どうなさいました!?」


側に控えていた侍女が、慌てて駆け寄ってくる。


「し、執事の、フィルリスを……呼んで……今すぐ……っ!」


言葉を絞り出すように頼むと、侍女は頷き、小走りで屋敷の中へと戻っていった。

私は唇を噛みながら、せめて人目につかぬよう、庭の奥の蔦棚の影へと身を隠す。

呼吸を整えようとするたび、胸が軋むように痛む。


どれほどの時間が経っただろうか。

次の瞬間――


「お嬢様っ……!」


駆け寄ってくる足音と共に、息を切らせたフィルリスの声が届いた。


「……おそ、い……わ……」


必死で絞り出した私の声に、彼は眉をしかめる。

すぐに私の手を取り、膝をついた。


「もう……我慢なさらなくて大丈夫です」


囁くようにそう言った瞬間、彼の腕が私を引き寄せた。

人目を避けるように、棚の陰に私の身体を隠しながら。


「……っ、フィル……」


「大丈夫です。今は――何も考えなくて」


そう言って、彼は私の頬に触れ、そしてゆっくりと唇を重ねた。

それは、これまでで一番深い口づけだった。

甘く、熱く、苦しみを溶かすように、彼の唇が私のものを覆い尽くす。


まるで、契約という名を借りた、彼の執着そのもののように――。


私の指が無意識に、彼の胸元を掴んでいた。

怖かったから。

苦しかったから。


けれど、それ以上に。

……彼の存在を、心が求めていたから。


やがて、唇が離れる。

先ほどまでの痛みが、嘘のように消えていた。


「……落ち着きましたね」


フィルリスはそっと私の額に触れ、微笑む。

その目に浮かんでいたのは、安堵と……ほんの少しの、名残惜しさ。


「……ごめんなさい。私、……一度だけ、キスを忘れてたのかもしれない……」


ぽつりと漏れた私の言葉に、彼は小さく首を振った。


「いいえ。悪いのは、私です。

 毎朝の“キス”に安心して……足りていると思ってしまった。

 ですが、お嬢様の心と身体は――もっと私を必要としていた」


その声音に、心臓が跳ねる。


「……もう、我慢いたしません。

 お嬢様が“忘れる”前に、毎日、何度でも」


耳元に落とされた声は、あまりにも優しくて、ひどく甘やかで。

同時に、強く、抗えない力を帯びていた。


まるで、「一日に一度」では足りないと言っているかのように。


私の頬が、自然と紅く染まる。

けれどそれを隠す間もなく、フィルリスは再び私の額に口づけを落とした。


「……これも、契約のうちですから」


そう囁いて、彼はそっと立ち上がる。

まるで、何もなかったかのように。


……けれど私の胸の奥には、彼の熱がずっと残っていた。


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