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第2話

 ――熱い。

 まるで胸の奥に琥珀色の炎が灯ったようだった。

 今もなお唇に残る、あの感触。


「っ……」


 震える指先で、自分の唇をなぞる。

 確かに、触れたはずなのに。

 けれど、それは夢のように儚く、信じがたいものだった。


 執事と主の関係であるはずの私とフィルが……口づけを交わした。

 だが、それ以上に信じ難いのは――


 ーー“契約の維持には、一日に一度、口づけを要する”


 あの本に記された、あまりにも非現実的な条件。

 思わずフィルリスの方を見上げる。


 彼は、ただ静かに私を見つめていた。

 琥珀色の瞳に、何の動揺もない。

 まるで「これが当然のこと」とでも言うように。


「お嬢様」

「なに?」

「どうやら、これが契約の証のようですね」

「契約……?」


 戸惑いに眉を寄せる私の傍らで、フィルリスは静かに手を差し出す。

 その手の甲にもまた、琥珀の光を帯びた紋章が刻まれている。


 彼の指先が、微かに震えていた。

 まるで――囚われることを悦んでいるかのように。


 胸の奥が不安に掻き乱される。

 ただの古い魔導書に触れただけなのに、どうしてこんなことに?


「お嬢様。少し、距離を取ってみてください」


 フィルリスの低く甘い声が、書庫の静寂に溶ける。

 その言葉に、私は僅かに眉をひそめた。


「……なんのために?」

「契約の影響を、確かめるためです」


 フィルリスの瞳は、夜闇に揺れる琥珀の炎のように光を宿していた。

 静かに、だが確実に見つめる眼差しに、無意識に息を呑む。


 ……まるで、すべてを見透かされているような錯覚を覚える。

 心を落ち着かせるように、小さく深呼吸をしながら、そっと後ろへと歩を進めた。


 一歩。

 また、一歩と下がる。

 ――途端に、胸の奥が激しく締め付けられた。


「っ……!!」


 鋭い痛みに膝が崩れそうになり、息が詰まる。

 体の内側から、何かを握りつぶされるような苦しさが走る。


「はぁ……っ」


 喉が焼けるように熱い。

 苦しさのあまり涙が滲みそうになった、その瞬間――


「お嬢様!」


 彼の腕が、すぐに私を抱き留めた。

 温かい体温が、絡め取るように纏わりつく。


「っ……フィル」


 彼の手が、私の背に添えられる。

 服越しなのに、まるで素肌に直接触れられているように感じた。


 指先の微かな震えが伝わってくる。

 それは私が不安だからではなく――


「……これが、おそらく“契約” の内容かと」


 囚われるような、低く甘い囁き。

 フィルリスの琥珀の瞳に見つめられながら、私は震えた。


 ――本当に、離れることができないの?

 彼の腕の中で、身体が収まる感覚。

 胸の鼓動が高鳴る。


 それが、契約によるものなのか――それとも。


 フィルリスはそっと、肩を支えていた手を離した。

 そして、ためらいがちに、自らの手袋に視線を落とす。


「……お嬢様」


 呟くと、彼はゆっくりと片手の手袋を外した。

 (シルク)の生地がするりと指先から滑り落ち、白く整った素肌が露わになる。


 執事である彼が、公爵令嬢に素手で触れることなど、あってはならない。

 それなのに――

 フィルリスの指が、迷うように宙を彷徨う。それから、ゆっくりと肌に触れた。


「……っ」

「このままでは、お辛いでしょう」


 肩が跳ねる。

 手袋越しではない、彼の素肌の感触をこんなにも鮮明に感じるなんて――。

 フィルリスの指先が、そっとルルティアーナの頬をなぞった。

 

「……お嬢様は私の手を、離せますか?」


 ふと問われた彼の言葉に、ルルティアーナは思わず息を詰めた。

 彼が強く握っているわけではない。

 むしろ、触れているのはごくわずか。

 それなのに――


(……私の方が、離せない?)


 そんなはずはないと、ルルティアーナは自分に言い聞かせる。

 だが、意識しすぎたせいか、逆に指先が無意識に彼の手を追ってしまいそうになる。


「……そんなこと、聞かなくてもわかるでしょう?」


 そう言った声が、ほんの少しだけ震えたのが自分でもわかった。


 すると、フィルリスは穏やかに微笑む。

 けれど、その琥珀の瞳には 淡い熱が宿っている ように見えた。


「そうですね。では……お嬢様、今一度、契約の確認をしましょう」


 囁く声は、いつもより少し低い。

 次の瞬間、フィルリスの指が喉元へ滑る。

 途端に、微かな震えが喉元を駆け上がり、思わず息が詰まる。

 彼の指先は 氷のように冷たいはずなのに、触れられるほどに熱を持ち始める 。

 喉がわずかに動き、無意識に唇が震えるのを感じた。


「……お嬢様の喉が……鼓動に合わせて、震えていますね」


 フィルリスが囁く。

 低く甘い声が、喉元にじわりと絡みつくようで―― 逃げ場がない。

 さらに、彼の指が喉元から鎖骨へとゆっくりと滑り落ちる。


(……何を、しているの?)


 問いかけたかった。

 けれど、喉が詰まるようで、声が出せない。

 すると、フィルリスは微かに苦笑した。


「これは……契約によるもの、ではないですよね」

「……!」


 彼の瞳が、夜の灯火を宿して揺らめく。

 問いかけの意味を理解した途端、ルルティアーナは 咄嗟に顔を背けた。

 けれど、次の瞬間――


「お嬢様……私から、逃げないでください」


 甘く、低く、囁く声が耳元に落ちる。

 その声音に、ルルティアーナの心臓が大きく跳ねた。


(……逃げている? 私が?)


 まるで、彼に見透かされているような気がして――

 彼女は 自分の指が彼の手を掴んでしまっていることに、ようやく気づいた。


 囁く声が、ひどく優しく甘い。

 彼の掌が、そっと頬を包み込む。

 アイスブルーの髪がさらりと揺れ、私に影を落とす。

 ふっと細められた瞳に、息を呑んだ。


「……逃げるわけ、ないじゃない」


 強がるようにそう答えた瞬間、フィルリスは柔らかく微笑んだ。


「では――」


 気づけば、彼の唇が再び近づいていた。


「っ……!」


 息を飲む間もなく、彼の指が私の顎を引き寄せる。

 そして――唇が触れる、直前で止まった。


 フィルリスは、わずかに唇を動かす。 触れたか触れないか、曖昧な距離。

 吐息が絡むほど近いのに、彼の唇は決して押しつけられない。

 焦らすように、わずかに距離を取る。

 ルルティアーナは思わず、ほんの少しだけ前に傾いた。

 その瞬間――


「……お嬢様、自らお望みですか?」


 低く甘い声が、耳元に零れる。

 違う、と咄嗟に反論しようとすると、唇が触れた。


 かすかに触れたか触れないかの、曖昧な口づけ。

 けれど、そこには確かに熱があった。


「これで契約は維持されました」


 その声音はどこまでも穏やかで、けれど――

 なぜだろう。


 彼の手が、私の指をそっと離すまでの時間が、やけに長く感じたのは。

 指先が離れたはずなのに、そこに確かにあった温もりだけが、肌に焼きついて離れない。


 まるで、触れられた場所に彼の熱が残っているかのように、じんわりと疼いた。

 ルルティアーナはそっと唇を噛み、琥珀色の瞳から目を逸らす。

 けれど、 見ないようにすればするほど、彼の指先の感触が鮮明に蘇った――。

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