第1章 望みは、ひとつ 8
王宮の東にある陽光苑が、白磁宮の仮宮である。
クリーム色の塔の周囲は、広々とした庭園が広がっていた。
咲き乱れる春の花々の中を一人の少女が歩いていた。
薄い茶と赤のチェック柄のドレスを着たミーシャは、緊張した面持ちだった。
頭の中で何度も神話集の内容を繰り返してみたが、ちっとも落ち着かない。
そもそも、自分のような娘が、巫女になりたいと名乗りを上げること自体、間違っているのではないか。
いいや。
それでも、巫女になると決心したのだ。
自分を奮い立たせるように言い聞かせたミーシャは、眼前にそびえ立つ塔を見据えた。
こんな小さな建物なんて、恐れるに足りない。
雲の上にあるザイオンの宮殿の回廊は、どこまで続いているか分からないくらいに長いのだ。
その先にあるものを見たいと思ってしまう人間は、なんと愚かなのだろう。
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想像していた娘と大分異なっている。
エドマンド・バナッシュは、意外に思いながら、『新しい巫女候補』を眺めた。
ミーシャ・マルケウスは、類い稀なる美貌を持つ姉のシーナとは、全くといっていいほど、似ていない。
黒を混ぜたような茶色の髪は、若い娘に不釣り合いだったし、ぼかしたような空色の瞳は、意志など持ったことがないかのように見えた。
ようするに、少女は、地味だった。
大貴族の娘というよりは、能天気に遊び回っている町娘のようだ。
大抵の若者は、神々や信仰から最も遠い・・・彼らは、世界の中心いるのは、自分だと信じて疑わないから。
彼らの欲望は、とどまるところを知らない。
美しい姉に嫉妬して、巫女の座を奪おうとしているのか。
浅はかなものだ。
そんなことを考えながらも、バナッシュは、椅子に座っている少女に微笑みかけた。
実際、バナッシュは、どんな時にも微笑むことができた。
「初めに確認しておきます。ミーシャ様は、巫女になることをご希望なさっているのですね。」
「はい。」
少女は、緊張からか、少し上擦った声を出した。
「ご存知かと思われますが、巫女になるということは、神に一生を捧げることです。あなたは、あなたの一生を神々に捧げることができますか。」
この台詞は、50年前にバナッシュ自身が問われた質問だった。
その時、彼は、イエスと答えた。
ミーシャも答えた。
「はい。私は、私の一生を神々に捧げます。」
バナッシュは、続けた。
「巫女には、神々の時代に関する知識が、不可欠です。いくつか、質問をしますので、お答えください。」
「はい。」
「ザイオンが、空を支配した年は、何年ですか。」
「聖天暦3年です。」
「その時に建てられた宮殿の名前は、何といいますか。」
「フィゲール宮殿です。無限回廊を持つ雲の上の宮殿です。」
「月の女神ヒメロの夫は、誰ですか。」
「太陽の神ジマールです。」
「彼らの子供達は?」
「星の王子達です。第一王子のジュモは、雲の女神ラシューに恋をしましたが、彼女には夫であるファロンがいたので、愛に破れたジュモは、白鳥に姿を変えて、夜空の向こうへ飛び去りました。第二王子のメテロは、地上の人間が奏でる音楽に溺れたことで、ジマールの怒りを買い、神の証を奪われました。第三王子のジュヒは、美貌の王子でした。星の乙女達は皆、彼を恋い慕いました。しかし、彼は、乙女達のどんな誘惑も振り払い、ジマールの後継者としての地位を得ました。」
バナッシュは、よどみなく語る少女を感心したように見た。
「よく勉強しておられますね。」
正直、神話のことなど、何一つ知らない娘だと思っていた。
少女の方もどういうわけか、瞳を輝かせている。
「ねえ、神官長様。ジュヒは、どうして、星の乙女達の愛を受け取らなかったのでしょうか。乙女の中には、あのアガサもいたのに。ハープの名手である絶世の美女からの求愛を断ってまで、ジマールの後継者になりたかったのかしら。堅物もいいとこだわ。」
早口でベラベラとまくし立てたミーシャは、はっと我に返った。
見ると、白いローブを着た老人は、唖然とした表情をしていた。
「ご、ごめんなさい。余計な事を言ってしまいました。」
慌てて、しおらしく言い訳をしてみても、後の祭りである。
バナッシュは、内心の驚きを隠しながら、質問を続けた。
「アロンが、初めて地上に降り立った時、彼が育てた森の名前は、何ですか。」
「アウシュエットの森。そこで、聖女エルサと運命的の出会いをしました。聖天暦では、305年のことです。」
「アロンの弟、」
バナッシュが言い終わらない内にミーシャは、話し始めた。
「大樹の守人であるレオンですね。天上界で初めて神の証をザイオンに自らの意志で返上した。神々と人間の交わりは、レオンから始まったのでしょう。」
また、やってしまった。
神話のことを話していると、 見境がなくなるのだ。
「・・・王立学院の生徒は皆、あなたと同じくらい神話の知識を持っているのですか。」
「いいえ。まさか。去年の神学の講義だって、マーティンと私しか受講生がいなかったんですよ。あ、ごめんなさい。別に皆、神話が嫌いってわけじゃなくて、ほら、科学の実験の方が、面白いと思っているわけじゃなくて。神学が古くさいなんていう子は、えと、いなくて。あ、いや、その、つまり。」
言い訳すればするほど、墓穴を掘っている気がする。
頬を赤く染めた少女は、あたふたとしている。
気がつくと、バナッシュは、堪え切れずに笑っていた。
一しきり笑った後、老人は、コホンと咳払いをした。
「失礼。」
「あ、はい。」
ミーシャは、かなり驚いていたが、とりあえず頷いた。
老人の透明な瞳に温かさが増したように見えた。
「あなたは、どうして巫女になりたいのですか。」
「ほしいものがあります。」
「教えていただけますか。」
少女は、躊躇っているように口元に手を当てた。
「あまり、具体的には言いたくありません。」
「それでも、かまいません。」
バナッシュが優しく言うと、少女は、顔を上げた。
「人から注目されたいのです。自分を価値のある人間だと思いたいのです。」
「私達は皆、それぞれに価値のある人間ですよ。」
一応、ありふれた説得をしてみた。
「そういう意味ではありません。」
少女は、かなりムッとした口調で答えた。
「申し訳ありません。」
謝りながら、バナッシュは、もう一度少女をじっくりと観察した。
やはり、神聖な巫女という風貌ではない。
なのに、どこか惹かれる。
マルケウス家は、姉のシーナを巫女にすることを望んでいる。
では、一体だれが、ミーシャを巫女に据えようとしているのだろうか。
シュバルツを動かすくらいだから、相当の権力者だろう。
しかし、悪い気はしない。
長い物に巻かれてみるのも悪くないかもしれない。
神官になって50年目、バナッシュは、初めてそんな風に思った。