第1章 望みは、ひとつ 9
正装のローブを鬱陶しげに脱ぎ捨てた少年は、テラスのフェンスに寄り掛かった。
澄み渡る青い空の下には、アースの町並みが広がっていた。
南東の方角に見えるのは、白いドォーモ。
去年の秋に修復された白磁宮は、アーチの部分に金の装飾を施されており、荘厳な存在感を放っていた。
その白磁宮の向こうには、五つの塔とそれらをつなぐ回廊が見えた。
マーティンは、広大なムトスの王宮をぼんやりとした目つきで眺めた。
「晴れた日の王宮は、素晴らしく美しいわよね。」
「美しいなのは、外見だけじゃないか。」
マーティンは、振り向かず答えると、声の主は、クスリと笑った。
中央学院の正装である真紅のローブから伸びた細い腕が、少年から少し離れたフェンスに絡みついた。
卵型の頭の後ろでまとめられた濃茶色の髪は、すっかりほつれてしまって、強い春風が吹きつけるたびに、ゆるゆるとなびいていた。
「卒業式に出ないなんて、反則よ。」
責めているとも面白がっているともとれる口調で、ミーシャは言った
。
「君こそ、式はまだ終わっていないだろ。」
マーティンの言葉を聞いたミーシャは、一層可笑しそうにカラカラと笑い声を立てた。
いつもに増して言動のおかしい少女を気味悪そうにちらりと見たマーティンは、少女の頬が赤く腫れていることを発見した。
マーティンの視線に気がついたミーシャは、頬に手を当てると、おどけたように微笑んだ。
「『あのこと』がとうとうばれたの。お父様に顔も見たくないと怒鳴られるし、お母様にはぶたれるし、もう散々よ。」
そのわりにすっきりしたような表情を浮かべる少女が本音で何を考えているのか、マーティンにはよく分からなかった。
無表情に近い顔つきで黙りこんでしまった少年に近づいたミーシャは、眼鏡の奥の緑色の瞳を覗きこんだ。
「その顔は、手を貸したことを後悔してる顔?」
「少しね。」
マーティンは、小さくため息をついたが、空色の瞳から目を離すことはなかった。
「どうして、あなたが後悔するの?」
「ミーシャは、後悔していないの?」
ミーシャは、鼻で笑ってやった。
「質問に質問で返すなんて、マーティンらしくないわね。何が不満なのよ。ああ、分かった。やっぱり私は巫女に不相応だと思うのね。馬鹿な女に手を貸してしまったことを後悔しているのね。」
「そんなことは思っていない。それに僕が後悔しているのは、別の理由だよ。」
マーティンは、はっきりと宣言すると、鼻先に見える空色の瞳を睨みつけた。
薄くて、とらえどころのない瞳だが、動揺している時は青味が増すのだ。
それでも、ミーシャは、挑戦的な笑顔でうけおった。
「じゃあ、聞いてあげる。一体、何が不満なの。」
「君は、ちっとも幸せそうじゃないことだよ。」
きょとんとしたミーシャを見つめがら、マーティンは続けた。
「前にほしいものがあると言っていたね。何がほしかったのか、そろそろ教えてくれてもいいじゃない。」
「皆、同じことを聞くのね。どうして、こんな馬鹿な真似をしたのかって台詞、耳にたこができちゃうくらい何度も聞いたわ。別に大した理由じゃないのに。」
ミーシャは、つまらなそうに呟くと、体の向きを変えてフェンスに背中を預けた。
「馬鹿な真似だったのかは、理由を聞いてから決めることにするよ。」
「優しいのね。」
マーティンは眉をひそめたが、ミーシャは、またクスクスと笑い声を立てた。
やがて真顔に戻ったミーシャは、ぽつりぽつりと語り始めた。
「頬を叩かれた時、お母様は私を憎しみのこもった目で見たわ。今まであんな風に見つめられたことあったかしら。私は、ずっとあの青い瞳がほしかった。喜びや慈しみでなくて構わないと思っていたし、怒りでも悲しみでも憎しみでもいいと思っていたの。ただ、お母様に自分を見てもらえればそれでいいと信じていたの。自分でも馬鹿みたいと思うわ。結局、私はちっとも満たされなかったんだもの。やっぱり、私がお母様に望んでいたのは、やっぱり愛情だったみたい。」
ミーシャは、泣かなかった。
感傷のため息もつかなかった。
ただ自分の中に広がる空虚な感情をじっと見据えていた。
「僕は、誰かにそこまでも求めたことがないから、分からないけど」
マーティンは、言葉を探すように宙を見上げた。
「君は、我慢強くて優しい人間だと思うよ。君が思うよりもずっと。」
ミーシャは、かなりびっくりして、マーティンの横顔を眺めた。
しかし、眼鏡の下の仏頂面にいつもの皮肉を見つけることはできなかった。
マーティンは、どうやら真剣らしかった。
「今日に限って、非難してくれないのね。」
ミーシャは、小さく呻いた。
そんなミーシャをちらりと眺めたマーティンは、静かに答えた。
「君のおかげで、シーナ・マルケウスは罪悪感を持たずに好きな男と結婚することができるし、ユリウス・ラッカは人目を憚らず、好きな女を愛することができる。僕に何を非難しろって言うんだい。」
「姉様は泣いたし、ユリウスは軽蔑した目で私を見た。お父様じゃないけれど、二人とも私の顔なんか見たくないはずだわ。」
「鈍感な奴らだ。」
マーティンは、吐き捨てるように言った。
ミーシャは、思わず、苦笑いをした。
「姉様とユリウスのことは、ただの結果でしかないわ。私がお母様の関心がほしいがために、姉様から巫女の座を奪ったのは、紛れもない事実なのよ。」
「他人に甘いくせに自分には厳しいね。」
マーティンは、口角を上げて、にやりと笑った。
「いいのよ。甘やかしてくれる人がここにいるから。」
ミーシャもにやりと笑うと、マーティンの肩を小突いた。
しかし、何か思い出したのか、急に沈んだ表情を浮かべた。
「明日には、マーティンはアースにいないのね。淋しいな。」
地方領主の息子であるマーティンは、学院を卒業した後、故郷へ帰ることが決まっていた。
「ミーシャが洗礼の儀を受けて巫女になれば、どうせ会えなくなるんだ。」
「私は、そういう道を選んだのね。」
ミーシャは、力なく言った。
目の前に突きつけられた現実を頭では理解していても、やっぱり悲しく感じた。
マーティンは、しばらく黙っていたが、やがて何かを決心したように口を開いた。
「僕はやっぱり君のことが好きだし、幸せになってほしいと思っている。それは、離れていても変わらない。だから、」
「だから?」
ミーシャは、空色の瞳を輝かせ、マーティンを覗きこんだ。
マーティンは、少し戸惑ったような顔つきをしたが、なんとか言葉を続けた。
「だから、君が本当に大変な時は、必ず助けにいく。もしも、僕がもう一度君の前に現れることがあったら(もちろん、そんなことにならないように願っているけど)、それは一生きみのそばにいるってことだと思う。」
ミーシャがマーティンの言葉をきちんと飲み込むまでかなりの時間がかかった。
それでも、やっと理解したミーシャは、はにかむ様に笑った。
「最高のプロポーズね。」
「曖昧だし、無責任だ。僕は、最低だと思うけど。」
マーティンが大きなため息をつくと、ミーシャは、弾けるような笑い声を上げた。
この回で、第1章は終了しました。
第2章は恋愛の方向へ持っていきたいです。
のんびり更新します。