Royal MiLK Tea
冷たく突き刺すような十二月の夜風に怯むことなく、高輝は空気を切って歩いていた。
あまり目立たない濃い目の鋼色のロングコートに、さして珍しくもない短めの黒髪で、黒い帽子を被っているだけなのに、不思議と人の目を惹きつける。
クリスマスも近づき、町全体が浮き足立っている中、そこだけがひっそりと時を歩んでいる。
歩く姿も一枚絵のようにピタリと当てはまるが、何より人目を惹いたのはその瞳だった。
黒目に光彩の入った僅かに茶色の瞳は、まっすぐただ一点だけを見つめている。
すれ違う何人かがそれに強い意思を感じて、何かあるのかと振りかえる。
けれど、そこには何もない。
何もないからこそ、何かを見つけようと歩いていると云った方がむしろ正しい。
ここに来るようになって、もう一年が経つ。
十五才のイブの誕生日に拾われた事を知らされてから、俺は何度もその場所に足を運んだ。
何もないとわかっているのに、もう何度も来てしまう。
まるで、奇跡でも期待するように。
大通りから、少し細めの路地に入ったその場所で足が止まった。
先客がいる。
「っは~……」
そんな息遣いが聞こえてきた気がした。
白く冷たい光を放つ自動販売機から約1メートル離れ、小さな手に息を吹きかけて暖を取る少女は、ボロボロの服をまとっているわけではない。
むしろ、有名私立小学校の制服というやつで、毎日きちんと手入れされているように思う。
わりと、可愛がられるタイプの顔をしているとは思う。
薄茶の髪は毎日きちんと手入れされているのがわかるけど、長すぎて、座るだけで地面についてしまっている。
良いトコのお嬢様、といったところだろうか。
どちらにしても、こんな夜遅くに一人で出歩くのには関心しない。
「こんな時間に、子供がなにしてんだ?」
気がつくと、からかうように声をかけていた。
ところが、少女は何の反応もしない。
普段ならなんとも思わないその様子に、この時は意地になった。
「子供は帰って寝る時間だろ」
がしがしと頭をなでようと思ったが、やめてただ頭を軽く叩くだけにした。
ポンポンと二、三度叩くと少女の顔が上がった。
雪に映えそうな白い肌、姿に不釣合いな闇色の瞳には何も映っていない。
ただそれだけなのに、同じ匂いがした。
理屈じゃない。
「子供じゃないわ」
思うよりもしっかりとした言葉が返ってくる。
緊張した固くすべてを拒絶している声は、精一杯の防御壁でもつくっているみたいだ。
まるで、1年前の自分のような。
「子供じゃないのよ」
何度も言い聞かせるように呟く。
泣きそうには見えないのに、何故か泣いている気がした。
声はただ固く機械みたいに無機質で閉ざされて、期待しないように自分に言い聞かせる。
「独りでこんな時間までいるもんじゃない。
家はどこなんだ?」
送っていくよというと、少女はふわりと微笑んだ。
見る人によってはわからない、カタチだけの笑顔。
気づいてしまったのは、きっと自分と重なったから。
「いないわ。
私、捨てられちゃったの」
何でもない事のように言い切ってしまうのは、果たして強さだろうか。
もし、俺が彼女くらいの年でそんなことを知らされていたら、耐えられただろうか。
「それ、たぶん、間違いで、そんな、あの、その……」
自分でも何が云いたいのかわからない言葉を気休めみたいに並べた。
どんな言葉を並べても、たぶん彼女は聞かないだろう。
俺だったら、聞かない。
何も言って欲しくない。
俯いた少女は泣いているのだと思った。
慰めようと、隣りに座って、いろいろと言ってみたが様子が違う。
肩を震わせる時、大抵泣いているものだけど。
「……ふふふ、冗談よ」
その様はさっきの作りものの笑顔なんて、比較にならないくらい生きている気がした。
それで、やっと安堵できた。
「っだよ。
だまされたーっ」
騙されていても、それで彼女が微笑むならそれでいい。
被っていた帽子をとって、顔を見られないように目深に被せてやり、俺は自動販売機の前に立った。
流石に止まっている方が寒いので、温かい缶で暖をとろうという寸法だ。
缶コーヒーばかりが並んでいるが、そこに甘いものを見つける。
今の俺とこの少女に苦さは酷だ。
「ほれ」
ミルクティーを渡すと、少女の頬が僅かに緩まり、小さなありがとうが聞こえた。
根はたぶん良い子だ。
「で、マジでこんなとこで何してんの?」
「迎えを、待ってるの」
缶が熱いのか、両手の上で弄んでいる。
俺も空けずに手に包んで温まる。
「こんな時間に、こんな場所で?」
答えは返ってこなかった。
大通りから時折差す車のライトが、二人を照らしている。
「だって、おうちは寒いもん」
消え入りそうな小さな声に、一瞬首を傾げる。
吹きっさらしのこんな通りの自動販売機の隣り以上に寒い場所ってと考えたところで、思い当ってしまう。
どんなに暖かな家の中でも決して温かくなれないことがあると、俺も知っている。
去年から、ずっと俺も持っている暗い穴とおそらく同じものだと思った。
世界の全部がニセモノになって、世界の全部に裏切られている気がして、溶けるコトのない氷が心に巣食ったままなんだ。
同じ、なんだ。
そのとき、どうしてか俺の顔には笑みが浮かんでいた。
同じなハズがない。
俺は十五まで知らされずに生きてきた。
この子の年では何も知らずに、両親と多くの友人達とクリスマスパーティーの話なんかをしていたのだ。
同じハズがない。
「なんだ、淋しいのか?」
被せた帽子越しに頭を撫でると、やめてよと止める声はどこか嬉しそうだ。
気を張ってみせても、やはり子供。
かまわれるのは嬉しいらしい。
「淋しくなんて、ない。
いつものことなんだから。
慣れてるんだから!」
簡単に強がりだってわかるのに、なおも少女は帽子を押し上げて、見上げながら続ける。
死んだ目ではない、刃向かっているのに笑んでいる瞳にまた安堵する。
「慣れるヤツなんていねぇーよ。
淋しさに慣れるヤツは、いない」
自分で思っているよりも、落ち着いた声だった。
びっくりして、少女も目を見開いている。
「おにーちゃんも淋しいの?」
雪の結晶みたいに、すっと少女の言葉は入ってきた。
闇にひとひらの結晶が溶けずに落ちる。
落ちても溶けない。
「さぁな」
いーかげん、温くなった缶ミルクティーを開けて飲むと、冷め過ぎたイヤな感触が喉もとを通り抜ける。
それはそのまま心の中まで反映している様な気がして、小さく舌打ちした。
仕方ないので、一呼吸おいて一気に飲み干す。
「オトナになったら、淋しくなくなるの?」
ふいに少女はそんなことを言い出した。
「さぁな」
オトナじゃないから、わからないとはいえない。
「昔ね、ばあやがいってたの。
お父様はお母様を見つけたから、淋しくないって。
王子様を見つけたら、あたしも淋しくないって。
でも、ばあやが死んでから、あたしはずっと――」
俯く姿が可哀相な気がした。
でも、俺だってなんでも出来るほど大人じゃない。
大人になんてなれない。
「ずっと?」
途切れてしまった台詞の先は、聞かなくてもわかる。
ずっと、独りだった。
あれから俺もずっと、独りだった。
誰がそばにいても、どれだけ笑っても、いつのまにか俺は透明な壁を作って、全部から逃げていた。
「でも、王子様はいないの。
そんな奇跡は起こらないの」
もう温くなってしまったハズの缶を頬につけて、少女は静かに笑う。
どうにも儚くて、どうしてか泣いているようにしかみえないのに、彼女は笑んでいる。
「クリスマスに起こる奇跡なんて、全部ウソなのよ」
何が彼女にそう云わせたのかわからない。
頷いてしまいたいけれど、そうしたら、俺は今までの俺のすべてを無くしてしまう気がした。
与えられてきた優しさのすべてを否定してしまったら、俺には本当に何もなくなってしまう気がした。
「へぇ~、本当に?」
わざとからかいを舌に乗せたのに、少女は謳うように続ける。
「クリスマスにサンタなんて来ないわ。
ばあやが頼んだプレゼントが、朝になると枕元に置いてあった。
でも、ばあやがいない今、今年から何もない。
だから、本当は誰も迎えに来ないし、クリスマスの朝になっても、お父様とお母様は帰ってこない」
内容は諦めているのに、声が諦めていなかった。
聞こえてくるのは『奇跡を起こして』という唄。
「あたしは捨てられたのよ」
そういうのに、何故か少女は笑っている。
どうして、そんなことを笑いながら云えるのか、俺にはわからない。
コートのボタンを外して、俺はコートの中に彼女を包み込んだ。
思った以上に冷たくなっている。
コートで風を遮っても、きっと彼女に吹いてくる風は和らがない。
「……冷え過ぎだ。
氷みたいだぞ」
彼女の一言一言が絶望を散りばめていて、今の俺には細い剣の切っ先みたいに思える。
「おまえ、本当に独りなのか?」
反応は無いが、身体が小刻みに震えている。
「だったら、どうしてここで待ってるんだ?」
震えが止まる。
「おまえは捨てられてなんかないさ。
ただ、信じろ。
おまえは捨てられてなんかない。
家に帰れば、おまえを待ってる人たちだっているだろう?」
「そんなひと、いない」
「信じろ」
願望だろうか。
いつも俺は考える。
いつ出て行けといわれてもいいように常に準備しているのに、養母の迎えてくれる朗らかな声と食事が途切れる事がないと信じている。
それは愚かな事か。
「もう、帰りなさいよ。
おにーさんには帰る家があるんでしょ?」
急に突き放す言葉が返ってきた。
「おまえが帰らないから、気になって帰れないんだよ」
「帰るわよ!」
「本当に?」
また、黙ってしまった。
放って置けなかった。
ただそれだけだ。
「奇跡、起こしてやろうか」
なんで自分でそんなことを言い出したのか、後になってもわからない。
だから、おそらく時間も時間だし、そろそろ帰らなければならなかったからだ。
独りで残すには心配だけど、俺には確かに家で待っている家族がある。
「手ぇ貸せ」
コートの内ポケットを探ると、「耐水性」と書かれた黒のボールペンが一本あった。
怪訝そうな少女の袖を少し押し上げて、その腕に十一個の数字を羅列する。
誰が見てもわかる、携帯電話の番号だ。
「俺の携帯番号。
淋しくなったら、かけろよ」
疑問符の飛び交ってる少女に、ニカッと笑ってやる。
だって、笑ってやるしかないだろう。
「それが、奇跡?」
奇跡とも呼べないかもしれないけど。
「そう。
いつでも、おまえが話したい時に話してやる奇跡」
初めて、救ってやりたいと思ったんだ。
この少女を巣食う闇の中から、俺が引っ張りあげてやりたいってのは、俺なら救えるってのは傲慢か。
「そんなの、奇跡でもなんでもないよ」
「だから、信じろ。
信じれば、絶対奇跡は起こるからっ」
詭弁だとわかってるけど、こんな小さな少女にまで絶望はいらないだろう。
絶望するにはあまりに小さすぎる、この少女には。
「でも、あたしの名前も知らないのに?」
変なのと笑う様子で、初めて名乗ってもいなかったことに気がついた。
通りすがりで声をかけたにしては、あまりに馴染みすぎた空気ゆえか、世話好き体質なゆえか。
「そういえば、まだだったな。
俺は高輝。
加賀野高輝だ。
おまえは?」
「教えない」
「あのなー……」
「今度、かけた時にあててみせてよ。
もっともあたしがかけたらだけど」
最初より表情の出てきた少女に安心して、俺は立ちあがった。
また吹きつける風に怯む彼女に、自分のマフラーを巻いてやって、手袋をはめてやる。
「言ったからには、かけろよ」
「……だから、わかんないじゃない」
「名前なんか聞かなくても、声でわかる。
だから、いつでもかけろ」
大きすぎるマフラーに埋もれそうな少女の頭から、帽子だけ取り戻して、自分で被った。
「愚痴でもなんでも聞いてやるから」
奇跡になればイイと思った。
話を聞く相手になれれば少しでも救われると、俺も信じたかっただけだ。
独りじゃないと信じて欲しい。
人は独りではいられないから、誰かを求めてるんだ。
「……かけない」
「まってるよ」
「かけないってば!」
俯いて叫ぶ少女は、目に涙を浮かべている。
泣いたら、せっかく温まった熱が逃げてしまうのに。
それを見ないフリ聞こえないフリで、俺は場を離れた。
小さな足音が少し追ってくる。
何かに気づいたように立ち止まる。
「あたし、志姫!
志姫ってゆーの!!」
振りかえると、真っ赤な顔で両手を口に当てて叫んでいた。
そんなに元気なら、もう大丈夫だ。
「おやすみ、志姫!」
片手を挙げて、少しやすらかな気持ちで俺は帰路につく。
あの少女はもう一人で帰るだろう。
家に帰って、少しでも温かくなってくれるといい。
俺も今夜の事を思い出すたびに少しでも温かくなれるだろう。
偽善でも少しでも彼女の力になれたらと、今この時に思える事こそが俺の奇跡だ。
今まで空いていた黒い穴に小さな灯りがついた。
もしも奇跡があるなら、きっとこの安らぐ心こそが奇跡の証。