17-16 お作法
黒塗りの車から降りると、目の前にはライトアップされた平屋造りの宿が見える。
平屋造りな宿の様相は、いかにもカップルや女性同士が贅を尽くした旅行で利用しそうな宿だ。
一緒に車から降りた彼女は先程から立ち尽くしている。
この宿の情景の素晴らしさに、きっと俺以上の感動を受けているのだろう。
そんな彼女や俺の感動を余所に、運転手さんはトランクからキャリーバッグを降ろしていた。
その脇には細マッチョな感じのスーツ姿の男性が二人。
運転手さんが後部座席から俺のノートパソコン専用バッグを降ろすと、細マッチョなスーツが宿の入口に向けてドナドナと運んで行く。
「山本さん、本日はお疲れ様です」
「安全運転でありがとうございました」
「明日のお時間は?」
「明日は9時30分で、ここへお願いします」
運転手さんと山本さんの会話を聞き、俺は急いで彼女の肘を掴んで俺の方へと引き寄せた。
「由美子、運転手さんに渡して」
俺が囁くと、ハッとした表情を見せた彼女は、運転手さんに歩み寄る。
彼女がカゴバッグから心付けを取り出し、運転手さんに渡そうとするが運転手さんは手を出さない。
その様子に気がついた山本さんは一歩下がり横を向く。
結果として心付けを固辞する運転手さんの胸ポケットへ、彼女が素早くポチ袋を差し込んだのが見えた。
「心遣いをありがとうございます」
そう口にする運転手さんは、それまで被っていた制帽で胸元を隠し深く彼女と俺に向かってお辞儀した。
彼女がホッとした顔で俺の腕に手を絡めてくる。
その様子を見た山本さんが声をかけてくれた。
「それでは忘れ物も無いようですので、本日の宿へ案内させていただきます」
山本さんの後に彼女と腕を絡ませ並んで着いて行く。
視界の角には、お辞儀を続ける運転手さんがチラリと見えた。
宿の中へ入ると、玄関の土間口で着物姿の女性がお辞儀をしながら迎えてくれた。
多分、この女性が宿の女将なのだろう。
そんな女将の隣には、落ち着いた紺の着物姿の男性が同じ様にお辞儀をして迎えてくれた。
多分、この二人が宿の女将さんと御主人だろう。
女将と御主人から、フロントロビーに準備された応接へと案内された。
御主人と女将が並んで座り、向かい合って山本さんと俺と彼女の三人が座る。
全員が席に着いたところで、女将が挨拶の口上を述べ始めた。
「本日は我宿を選んでいただき、誠にありがとうございます。私が女将で隣におりますのが主人でございます」
口上を述べた女将が座ったままでお辞儀をすると、主人と呼ばれた隣の男性もお辞儀する。
「こちらこそ急な願いに応えていただき、誠にありがとうございます」
女将の口上に応え、俺も精一杯な挨拶を返す。
俺の挨拶が終わると、脇に控えていた中居さんらしき女性二人が、即座にお茶を出してきた。
「本日は、こちらの中居2名がお世話をさせていただきます」
女将の紹介を受けた中居さんを見れば、二人とも品の良い桜色の着物に身を包んでお辞儀をしている。
暫しの静寂。
ウォホン
御主人が咳払いをし、中居さんの出したお茶の茶蓋を取り、茶皿の脇に置いた。
山本さんが御主人に習い同じ様に茶蓋を置いたので、俺と彼女も茶蓋を置いた。
最後に女将が茶蓋を置くと、御主人が立ち上がり女将もそれに続く。
俺は出された御茶を啜ろうかと手を伸ばしかけていたのだが、御主人や女将が立ち上がったのに驚き、手を引っ込め慌て気味に立ち上がる。
そんな俺に続いて、彼女と山本さんも立ち上がった。
「それでは、担当の中居が案内させていただきます」
女将の言葉を受け、中居さんの一人が軽くお辞儀する。
「こちらでございます」
少し離れた距離から声をかける中居さんの後に着いて行こうとすると、山本さんと女将と御主人は応接に座り直した。
その脇には先ほどの細マッチョが立ったままで、何か説明を始めていた。
多分、俺と彼女宛に来たという『面会希望の来客』の件の確認だろうと思うことにした。
中居さんの後に続き、俺と彼女がフロントロビーの奥へと進むと、ガラス戸の向こう側に木製の屋根が備えられた回廊が見えた。
「もしかして、離れなのかな?」
「あの扉の先だとすると離れですね」
中居さんが外へと続くガラス戸を抑えながら、建物の外へと案内する。
ガラス戸を越えると、木製の柱で支えられた屋根と、その屋根に守られた石畳の回廊が続いていた。
中居さんを先頭に、石畳の回廊を進もうとすると彼女に諭された。
「センパイ、御主人がお茶の蓋を取る前に、この宿を誉めてください」
「えっ?あぁそうか、あの間は俺が宿を誉めるタイミングだったのか」
「結果として、御主人がお茶の蓋を開けてくれたのでよかったですけど⋯」
「なるほど、そうした作法だったんだ」
「いえ、むしろあそこで何も話さなかったのが良かったのかもしれません」
前を歩く中居さんが足を止め呟いた。
「今日は急な宿泊に加えて、お客様宛の来客もありましたので、女将が多少ですが訝しんでおりました」
「「はぁ⋯」」
「それを主人が引き受け、失礼とは思いますがお客様を吟味したのでございます」
「「はぁ⋯」」
「お客様は宿を誉める言葉も述べず、お客様宛の来客についても語りませんでした」
「「はぁ⋯」
「結果としてお客様のそうした姿勢を主人が認め、茶蓋を取りました。お客様もそれに応え、最後に女将も応じた流れでした」
「「はぁ⋯」」
再び中居さんが前を歩き出した。
中居さんの語りに『はぁ⋯』しか出ない俺だが、ここまでの中居さんの言葉には頷ける。
考えてみれば、本来、宿と客の関係は客が宿を願うことから始まる。
宿を願われた御主人と女将が客を認めないと、客は宿を得られない。
これは至極当然のことだ。
ましてや今回の俺と彼女は急な宿を願ったのに、俺への面会希望の来客という事態を招いている。
宿にしてみれば迷惑この上ない客だろう。
そんな客を女将が訝しんで断ることもできるのだ。
だが、今回は御主人が俺と彼女を吟味してくれた。
宿を誉めて『おべっか』を使わない、面会希望の来客について言い訳をしない。
そうした姿勢だと、御主人と女将が受け止めてくれたのだ。
御主人や女将の勘違いかも知れない。
だが、宿を願った客である俺と彼女のことを、泊めても良いと、少しでも考えてくれた御主人と女将には感謝するべきだ。
大阪で眼鏡さんが確保してくれたホテルでは、『国の人』からのアプローチと餌を考えてしまった。
けれども、宿やホテルにしてみれば客の素性に問題があれば、本来は泊めたくないのが当たり前だ。
世の中は、俺の知る安易な天秤で計られているのではないのだ。
そんなことを考えつつ、前を進む中居さんの背を見ていたら、中居さんが再び立ち止まった。
「こちらの棟になります」
一瞬、中居さんの言葉に首を傾げてしまった。
案内してくれた中居さんは、『部屋』ではなく『棟』と口にしたのだ。