12-9 小会議室
「Hello. My name is Jirou Kadomori.」
"私の名前は門守二郎です。"
「I have an appointment with Mr. Eric at 15:30.」
"私はエリック氏と15:30の約束をしました。"
拙い脳細胞から知りうる限りの英文を引き出し、発音を気にせずに答えてみた。
「Please hold the line a moment.」
"通話を切らずにお待ちください。"
受話器の向こうから返って来た英語が、俺の知っている範囲であることを思わず神に感謝した。
彼女と二人でエントランスで待つ。
俺は右手に持った受話器を置きたくなったが、「Please hold the line」の言葉に従うと置くことが出来ない。
そろそろ勘弁して欲しいなと思った時に、パーティションの向こう側から長身黒髪スレンダーな女性が現れた。
モデルで女優の『菜○緒』に似ている。
年齢で言えば俺や彼女と同じだろうか、いや、もう少し若くて鈴木さんや田中君と同じぐらいか。
彼女と同じ様にパンツスーツに身を包み、モデル歩きだ。
今後は彼女を『モデルさん』と呼ぼう。
「Hello. Mr.Kadomori.」
先ほどの電話の声と同じだ。
モデルさんが英語で喋っていたのね。
俺はようやく受話器を戻すことが出来た。
モデルさん、出来れば日本語でお願いします。
そう考えつつも英語での挨拶をしようとすると、俺の後ろにいた彼女が半歩前に出て、英語で喋り出した。
「We are Japanese. And this is Japan. Why don't we have a conversation in Japanese?」
秦さん。後で翻訳をお願いします。
「わかりました。ここからは日本語で話します。案内しますので、こちらへどうぞ。」
モデルさん。日本語を喋れるの?
それなら最初から日本語でお願いします。
モデルさんの後ろをついて、エントランスのパーティションを越えると、目の前にガラスで囲われた小部屋のようなものが見える。
よく見ると、ガラス張りの小部屋の中には階段が見える。
こうした階段って、別のお客様のオフィスで拝見した記憶がある。
そのお客様からは、「異なるフロアの交流を促進する社内階段」とか言う説明を聞いた。
そのガラスの小部屋以外には視線を遮るものがなく、大きな窓まで見通せるオフィスフロアが広がる。
清潔感に満ち近代的でオープンなオフィスフロアに圧倒されながら、モデルさんの後ろを着いて行くと、4人掛けのテーブルが置かれた小会議室に通された。
「この部屋で荷物をお預かりします。」
「ありがとうございます。」
モデルさんからの気遣いだろう。
俺と彼女の荷物への気遣いが嬉しかった。
「この後、打合せされるエリアには電子機器を持ち込めません。また Mr.Eric との面会ではメモも出来ませんので、この部屋で荷物をお預かりします。」
そう言って、モデルさんは小会議室の外に出て開けていた戸を閉めた。
気遣いじゃなかった。
こうした電子機器の持ち込みを禁ずるのは、録音や写真撮影の防止もあるが、内部情報の持ち出しを防ぐ目的もある。
更にモデルさんは、面会ではメモも出来ないと口にした。
エリック氏はかなり情報管理に徹底した姿勢が伺える。
俺が土下座謝罪に行った東京支社(この大阪が本社の筈だから、東京が支社扱いだろう)では、こんな対応はなかった。
それだけこの大阪本社は、よりアメリカ本国に近い位置付けなのだろう。
だが、この会議室に荷物を預けるに際して、少し気になることが出てきた。
今日の俺はノートパソコンとPadを持ち歩いている。
しかもノートパソコン専用バッグには、眼鏡から受け取ったUSBメモリーも入っている。
これらを無防備にアスカラ・セグレ社に預けて大丈夫なのだろうか?
ノートパソコン専用バッグとウエストポーチを巻き付けたキャリーバッグを置く。
スーツのポケットに入っているものを、机の上に全て出す。
財布、PASMO、バーチャんから受け取った茶封筒、眼鏡から受け取った二つ折りのメモと赤封蝋がされた白い封筒。
軽くスーツのポケットを叩き、全てを机に出したことを確認する。
バーチャんから受け取った茶封筒(たぶん現金)の中身を見て驚いた。
明らかに俺の夏のボーナスより多い。
縦横に帯封がされた現金だ。
慌てて茶封筒に戻してスーツの内ポケットに入れ、紛失を恐れてボタンまで閉じてしまった。
ウエストポーチからスマホを取り出す。
代わりに机に並べた全てをウエストポーチに放り込んだ。
バタバタとスーツから出し入れする俺。そんな俺を眺める彼女と目があった。
「センパイ。スーツのポケットに入れ過ぎです。シルエットが崩れますよ。」
はい。すんません。
指摘をする彼女は、既に支度を終えていた。
俺に指摘するだけあって、普段から衣服のポケットには物を入れないのだろう。
俺は最後にスマホを操作して録音を開始し、荷物の上に見えるように置いた。
これで俺と彼女の荷物に触れるなと言う警鐘になれば良いが…