12-3 寝坊したので
寝泊まりしている部屋に入り、旅支度をしようとしたが思い止まった。
昨日から今まで、俺はテレワークをしていない。
彼女もしてないのでは?
その事を彼女に伝えようと俺が仏間を覗くと、彼女とバーチャんがスマホを触りながら何やら話し込んでいた。
二人が仲良くしているのは良いことだ。
「秦さん。いいかな?」
「センパイ。何ですか?」
「社内メール。見る?」
「そうだ、その件もあったんだ。お婆ちゃん。新しくお茶を入れて来ますね。」
「おお、すまんな。」
彼女は、お茶を入れるために台所に入っていった。
バーチャんはスマホを充電器に置き、代わりにPadを手にした。
ほどなくして、彼女がバーチャんにお茶を入れて座卓に置く。
「ちょっと、仕事してきます。」
「由美子さん。ありがとうな。」
そんな二人の姿を見て、彼女を嫁にもらったらこんな風景が日常になるのかな?
そんなことを考えてしまった。
「センパイ。顔が腑抜けです。」
「そ、そうかな?」
仏間を覗く俺の顔を彼女が覗き込む。
そんな俺の心を彼女に覗かれた気がした。
彼女と二人でお爺ちゃんの部屋に入る。
肩を並べて座卓に向かって座る。
俺は自分のノートパソコンを立ち上げ、社内ネットにログインして未読メールを読もうとして気がついた。
「あれ?秦さん自分のノートパソコンは?」
「新幹線に乗れませんでした。」
秦さん。何を言ってるか意味不明です。
「昨日の朝、ノートパソコンが寝坊したので置いてきました。」
おいおい。それって秦さんが寝坊したんでしょ?
「寝坊したノートパソコンはどうしてるの?」
「家で留守番してます。」
秦さん。ニッコリで誤魔化さないでね。可愛いけど。
「俺のメールを見るだけで大丈夫なの?」
「大丈夫です。仕事のメールで個人宛に来るのは本当に少ないんです。」
彼女の言葉に、確かにそうだなと思った。
業務上のメールが個人宛に来ても、Cc:では課員全てが入れられていることが多い。
むしろ個人宛に来るのは、ナンパなメールが多いと聞く。
飲み会のお誘いや合コンのお誘い。
果ては不倫の待ち合わせまでが、社内メールに乗せられていると噂に聞いたことがある。
部長職以上ならば、部員のメールが見れてしまうことを忘れている奴らが多いのだろう。
「じゃあ。俺のメールで我慢して。」
「センパイ。言い方。」
寝坊してノートパソコンを忘れたことを皮肉ったら言い返されてしまった。
未読メールは6通来ていた。
4通は課長宛に来ていた物に、鈴木さん、田中君、彼女が代返した返礼メールだった。
彼女の指摘通りに、発信者を宛て先にして課員全員がCc:にされている。
俺はその返礼メールを読んで懐かしさを感じた。
》……感謝します。ありがとう。
》……助かりました。ありがとう。
》…ありがとう。
『ありがとう』の文面は社交辞令だとわかっている。
けれども相手を労う(ねぎらう)言葉であり、いたわる言葉であり、礼を伝える言葉であり、共に仕事をする仲間を称える言葉だ。
ああ、そうか。
今年に入ってから、パワハラ課長宛に来たメールへの返信は、終電残業を繰り返して紙面で作成していた。
その紙面をパワハラ課長から最終承認を貰うまで作り続ける日々を過ごしていた。
あの紙面はどこに行ったんだろう。
パワハラ課長が自分で出していたとは思えない。
そう言えば腰巾着な山田が、他部署へ使いっぱしりをしていたのを思い出す。
パワハラ課長のやり方は、こうした社交辞令からも課員の皆を隔離していたのだ。
もうやめよう。
パワハラ課長がやったことを考えても、釈然としない怒りを心に残すだけだ。
有給休暇を終えて東京に戻れば、もうパワハラ課長はいないのだ。
残り2通の未読メールは総務部発信で、『社内メールシステム』と『経理台帳システム』の緊急メンテナンスを伝えるものだ。
「センパイ。この緊急メンテナンスって…」
「うん。部長が話してた件だと思う。」
どちらの緊急メンテナンスも、5月2日(日)10:00から24時間停止する旨を記していた。
メールを下部まで読み進むと、大本の発信は社内システム部で、総務部長、経理部長、人事部長が承認する旨が記されている。
極めつけは、社長承認が成されていることだ。
「社長承認までありますね。」
「全役員が知っているってことだね。」
「はぁ~。少し安心しました。」
秦さんの気配から緊張が抜けた気がする。
》数字は修正するよ。奴らの好き勝手にはさせない
》社内システム部が主体となって、君の課の過去のメールを全て調べてる
部長が口にしたこれらの言葉が、一つずつ実行されて行く事に、安心感を抱いたのだろう。
「センパイ。これって鈴木さんと田中君に伝えますか?」
「秦さん。伝えたいの?」
「ええ、二人を早く安心させたいんです。」
「伝えても良いよ。但し…」
「但し?」
秦さん。小首を傾げた仕草が可愛いです。
「ネット会議を要求されたら、自分のノートパソコンが無い秦さんは、俺とペアで参加になるよ(笑」
「……良いです。あの二人に見せつけてやります!」