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「ジュースでも飲もう」
佐藤が言って僕らは休憩する事にした。誰もいない、僕達しかいない広いグラウンドを横切り、体育館の裏に出た。缶ジュースを買って、ベンチに座った。目の前にはグラウンドと空、それから雲、日差し。広い。広い世界が開けている。
「お前、グレープ好きだったよな」
佐藤が言ってきた。僕は言われて、自分の缶を見た。オレンジジュースだった。佐藤のはサイダーだった。
「どうしたんだ? どうしてグレープじゃないんだ?」
「別に…グレープが好きなわけじゃない。たまたまだろ。お前が見た時、たまたまグレープ飲んでただけだろ」
「いや、そんな事ない。お前はいつもグレープだったはずだ。俺、見てたし」
佐藤が妙な主張をするので、僕は眉をしかめた。自分の記憶を探ってみたが、いつもグレープを飲んでいたわけじゃない。きっと勘違いか、人違いだろう。
僕らは、グラブを置いて、木陰の下で缶ジュースを飲んだ。静かだった。他の学生の声は聞こえなかった。この世の果てのようだった。
「静かだな」
佐藤がポツンと言った。「ああ」 僕は小さく言った。佐藤が隣でボールを手に取り、ポンポンと上に上げてはキャッチするのが、視界の端で見えた。
「いつもはこの時間、バスケ部の連中がやってるのにな。バスバスバスバス、ボールが跳ねる音が聞こえてくるのに。…何も聞こえない。静かだなあ」
佐藤はボールを弄びながら言った。「こんなご時世だからな」 僕は小さく言った。佐藤はボールを置いて、立ち上がった。佐藤のふくらはぎが見えて、普段運動している人間らしく、それは筋肉質に見えた。
「それにしても、これから起こる事が信じられないよ。これから…あんな所に行くなんて。帰ってきた奴は一人もいないんだろ? って事はまず死ぬって事だよな」
佐藤は言った。そこには悲壮な調子は少しもなかった。僕はそんなカラッとした性格の佐藤が好きだった。
「でも、死ぬ事はないって、公式の発表ではなってたよ。確かに死者はゼロだって…。ほんとかどうかわからないけど」
「嘘に決まってるだろ」
佐藤は断言した。確かに、公式の発表は嘘だとはみんなが薄々感じていた事ではあった。
「でも、光栄な事ではあるよなあ。こういう死に方ができるって。だって平和な時にはこういう死に方はできないだろ? せいぜい、公団住宅の端っこで、孤独死して、ドロドロに腐ってしまって、特殊清掃人に鼻つままれながら片付けられちゃうくらいなもんだよ。それに比べりゃ…幸福だよなあ」
佐藤はそんな事を言ったが、その表情は僕からは見えなかった。僕には、佐藤が本気でそう思っているのか、それとも、自分に強いて言い聞かせているのか、どちらか判別がつかなかった。「まあな」と僕は気のない返事をした。
「…でも、そんなイメージは偏見じゃないか? 孤独死してドロドロになるなんて…もっといい死に方だってあるだろ」
僕は気になったので、後から付け加えた。佐藤は向こうを向いたままだった。
「どっちだって同じだろ。…おんなじだよ。どっちにしたって、こんないい死に方はできない。無理だよ。普通の時にはさ。死に方が即ち、生き方なんだから。もっと大きなものの為に死にたい。俺は前からそう思ってきたんだよ…。子供の頃からな。ヒロイズムって奴かな。男の子なんだな。俺は。…へへ」
「気持ち悪いな」 僕は横から口を挟んだ。
「…うるさいなあ。俺は、憧れてたんだよ。昔からずっと感じてた。人として生きる以上、どう生きてどう死ぬか。それが問題だってな。だからこの話が持ち上がった時、俺は嬉しかったよ。俺がまさしく望んでたものだってな。…多分、そうだ。多分、な。それで…まあ…こうなった。俺は幸せだと思うよ。多分幸せだと思う。お前もそうだよ。きっと色々な事を感謝する日が来るんだよ。何か大きなもの、未知のものに向かって飛び込みたいと考えていたけど、そんな日があっさり目の前に来るとはな。…不思議な感じだよ。なんだか。その日が…今日だなんてな」
僕は後ろからじっと佐藤を見ていた。途中から佐藤の声が涙声になってきたような気がしたが、顔を拭っていない以上、泣いてはいないのかもしれない。僕は、泣いている佐藤の顔を想像した。それは彼の朗らかな顔にぴったり合っているような気がした。
僕も立ち上がった。ボールを手に取って、佐藤の後頭部をコツンと叩いた。佐藤が振り返って「何すんだよ」と言った。その顔は以外にもーー平静だった。泣いていなかった。涙の跡も見えない。泣いているのを想像していたのに。裏切られた、と思った。
「何、かっこつけてんだよ。そんな話じゃないって事に、なってるじゃないか。公式じゃあ、死者は出てないし、みんな無事だし、楽しくやってるらしいぜ。深刻になるなよ。向こうで…向こうに行ってもトランプでもやろうじゃないか。キャッチボールもやろうぜ。ここでこうしているみたいにさ。…そんなかっこつけた事、今の時代に言ってもモテないぜ」
僕が、わざとニヤニヤしながら言うと、佐藤は虚を突かれたような表情をしていたが、少しすると、普段の顔に戻って「あ、ああ。そうだな」と言った。その口ぶりは硬かったが、ほどなくして、佐藤はすぐに普段の佐藤に戻った。つまり、朗らかで優しいスポーツマンな彼に。僕は、ほっとした。