ひきこもりの自慢の弟
とある企画で便座カバー、花言葉、巨大生物の三単語を入れた短編制作の作品。
今回は「キャラ」を意識して書きました。
その日はバケツをひっくり返した様な夕立が夜になってもアスファルトを叩き続けていた。
テレビに流れる短時間記録的大雨情報のテロップを、片桐竜胆はボウと眺めていると玄関が勢いよく開く音がした。
「──兄、さん。た、助け、助けてくれッ!」
玄関口でびしょ濡れになっている少年を見て、竜胆は軽い衝撃に見舞われた。
「碧、お前。出掛けてたのか?」
帰って来たのは竜胆の家族、弟の碧だった。──だというのに、竜胆は眼の前の少年が弟である実感が希薄であった。
何しろまともに顔を合わせるのは実に二年ぶり。
随分、変わってしまったと思う。
伸び放題の黒髪はねじくれ、運動から縁を切った細い身体は触れれば手折れてしまいそう。町内会の工作教室で付いた手の切り傷痕だけが、竜胆の記憶と一致していた。
「……猫」
細いその手が抱える小さな存在に遅ればせながら気付く。
野良猫にして上等な毛並みをして見える。見えただろう、という表現が正しいか。
肩で息をする碧とは対照的に、その猫の息遣いは酷く弱々しく、腹部だけが小さく上下している。四肢は半分見当たらず、片耳がごっそりと潰れ、尻尾は半ばから千切れている。口から零れた朱が首元まで達して場違いに鮮やかだった。
何が起きたかは、想像に難くない。
「頼むよ、兄さん。此奴、俺の眼の前で……。でも俺は何も出来なくて。なあお願いだよ!」
強張った口で必死に竜胆に縋る碧も、いまにも倒れてしまいそうだった。ガクガクと震える膝は碧の口よりも雄弁に疲弊を語っている。元から色白だった肌は雨で濡れて更に青白く、彼の方がいまにも死にそうだ。
泥と血で汚れた膝の擦り傷が痛々しい。
「ひとまず自分の有様をどうにかしろ。その子は俺が診るから」
診るといっても、竜胆は獣医でも何でもない普通科の高校生だ。医療知識は精々が民間医療程度のもので、そもそも猫を飼った経験すらない。施せる処置なんてたかが知れていた。
ただこんなにも必死な碧を見たのは、竜胆が知る限り本当に久しぶりだった。
「あ、ありがと。兄さん……」
「いいから。早く風呂へいけ」
竜胆は猫を預かると自分用のバスタオルを何枚か掴み取って、碧を脱衣所に押し込む。
リビングに移動した竜胆は慎重に猫の身体を拭いていき、適当な段ボールに家庭科の授業で作った不出来な作品を敷き詰め、簡易ベッドを作ると猫をそっと寝かせる。
まだまだ出番が早い電気ストーブを押し入れから引っ張り出し、冷え切った小さな命に暖を送る。
竜胆に出来たのは、そこまでだった。
動物病院に連れて行く事も考えたが、既に何処も受け付けは終了している時刻。そもそも纏まった金が竜胆の手元には無い。
更に現実に眼を向ければ、猫が明日を迎えられるかも分からない。
素人目に見ても、今夜が峠だろうと容易に判断が着く容体だ。
「助かるよな? なあ、兄さん、こいつ、大丈夫だよな?」
着替えてきた碧が髪も碌に乾かさずに、水を滴らせながら段ボールを覗き込む。
先程より幾分気持ちは落ち着いたのか、しどろもどろだった口調は収まっているものの、オロオロと視線は竜胆と猫を行き来している。
「ちゃんと身体拭いとけ。あとはこの子に最後まで付き添ってやるしか、俺達に出来る事は無いよ」
竜胆はそう言うとガシガシと碧の髪をバスタオルで拭く。彼の言う通り、唯の学生にしてやれる事は、もう見守る事の他残されていなかった。
「……出来る事は、ない」
されるがままの碧はズボンの膝をギュッと握りしめ、苦し気に悶える猫へ視線を落とす。表情はタオルと髪で伺えない。
滴る水滴は中々拭ききれず、カーペットは濡れ続ける。
翌日。
竜胆は一人近場の公園に脚を運び、土で汚れた手を合わせていた。
眼前の木の根元に出来た小山に、花屋で適当に見繕って貰った花を添えてある。
青い小さな花。フウリンソウと応対してくれた店員は言っていたはずだ。
──花言葉は『感謝』。
「車に撥ねられたお前からしたら、意味分からないだろうな」
土の下から上がっているだろう抗議を想像し、竜胆は苦笑を零す。
こうして弔った労働の対価代わりではないが、小洒落た花を添える程度には伝えたい気持ちがあったのだ。
「弟が手遅れのお前を助けようとしたことは、偽善かも知れないけどさ。でも本心からお前を助けようとしたはずなんだ」
公園にはまばらだが人も増えてきた。大型の動物を公共の場に埋葬したのは少々不味いが、竜胆は人目を気にすることなく独白を続ける。
「弟は……碧は所謂引き籠りでな。同じ家にいるのに、もう二年近く真面に会ってなかった」
二年。
それは竜胆が朝食と夕食を碧の部屋の前に運び続けた時間でもある。
食事を乗せたお盆を置く前に、扉に耳を当ててパソコンやゲームの音を確認して、碧を扉越しに確認する日々。
もしかしたら碧は知らぬ間に何処か異国の地へ出て行って、部屋には誰か別の人が居るのでは……そんな疑心暗鬼に捉われた事もある。
「時々ゲームか何かを買いに外へ出ている事は知ってたけどな。不運にも……いや、いっそ運命的なのかな。弟は出先で撥ねられるお前を目撃したわけだ」
竜胆の口元に小さく笑みが零れる。
不謹慎なのは重々承知だったが、嬉しさが滾々と込み上げてくるのだ。
「アイツは中学に上がりたての頃に色々あってな。人と接するのが怖くなったんだ。誰かを信じたり、頼ったり、心配するなんて以ての外ってな。拒絶の殻に閉じこもって、誰も受け付けない」
情動豊かな思春期の真っ只中の碧に起きた事件が、彼が引き籠るきっかけとなった。
詳らかにすれば多少特殊ながら佩いて捨てるほど有り触れた話ではある。
けれども当人は酷く傷つき、不登校になりやがては自室から出て来なくなった。
「だから猫一匹に血相変えて動転したアイツを見たとき、悪いけどお前の事は殆ど頭になくってな。ああまだ弟は誰かの為に必死に成れるんだって、嬉しさの方が先に出てきた」
それとも久しぶりに“兄さん”と呼んで貰えたのが嬉しかったのか、と竜胆はカラカラと笑う。
風が公園を通り抜け、木々がざわざわと揺れる。
「別に怒ってもいいぜ? 薄情な事を言ってる自覚はあるからな」
抗議があれば呪いでも崇りでも受けてやる心づもりだ。
竜胆は見繕っていた適当な大きさの石を小山に乗せると、小さく折った線香に火を点け石に添えた。
細い白煙は風に攫われ、直ぐに空気に呑まれていく。
「お前が死んだ後、弟は荒れたよ。『なんで助けてくれなかったんだ!』って俺に当たり散らしたと思ったら、急に顔青くして便所に駆け込んで悶え苦しんでた。今朝見たら、便座カバーは吐瀉物で汚れてるし、トイレットペーパーは散乱してるし。お前が撥ねられた場面がフラッシュバックしたのかね」
お蔭で朝一の仕事はトイレ掃除となってしまった。
だがずっと停滞していた碧の時間が動いた気がして、両親と秘かに嬉しさを分かち合ったのは碧には内緒だ。
その碧はといえば再び自室に籠ってしまい、今日は朝食も摂っていない。竜胆が一人で小さな葬儀を開いているのも、その為だ。
「本当は最後までケジメを付けろって、怒るべきなのかも知れないが……難しいな」
片桐家は共働き家庭なので、碧と一番向き合うチャンスが多いのは竜胆なのだ。
対処方法をネットで調べたり、メンタルケアの専門家へ相談したりと、碧の為に出来る事を探し回っているが、この手の問題は明確な解決方法が確立されていないと知るのに時間は掛からなかった。
時たま祖父母が様子を見に来てはくれるものの、人生経験豊富な彼等もまた碧にどう接したらいいか分からず、手を拱いている。
「不慮の事故で命を落としただけかも知れないが、お前がくれたこのキッカケは如何にかして生かさなきゃな」
線香が燃え尽き全て灰になったことを確認してから、竜胆はもう一度手を合わせてから立ち上がる。
暫くしゃがんだままだったので、蔑ろにされていた膝が鈍い疲労を訴えてきた。
「じゃあな。次は猫缶でも持ってくるからよ」
道具をビニール袋に仕舞い、木陰からで出た竜胆に日差しが降り注ぐ。
堪らず手で庇を作った竜胆は、ぼんやりと二年前の今頃を思い出した。
アスファルトから立つ陽炎で景色が揺らぐ初夏のある日、碧は心を閉ざした。
✝ ✝ ✝
片桐碧は天才児だった。
小学生の頃からずば抜けて頭がよく、特に機械工学に関しては現役大学生すらたじろぐ程。
自室にはゴミ捨て場から集めた家電製品を分解して作り上げたマシンが散在しており、竜胆が学校から帰れば碧の部屋からはんだ付けの匂いを嗅がない日は無かった。
両親も碧の創作活動を咎める事は無く好きにやらせ、寧ろ促進させるように友人の紹介で専門大学に聴講させに行ったぐらいだった。安全面の学習も兼ねて。
技術方面どころか数字や化学記号が眼を滑り、公式・方式でビクンビクン痙攣を起こす竜胆からしてみれば碧は別世界の住人そのものだった。
新聞やニュースに乗るほどのナントカ賞を碧が受賞した時ですら、賞の名前どころかどうして碧が評価されたかも覚えていなかった。
『天才現る』『50年に1人の逸材』『アメリカの大学にスカウトの動き』
いまもリビングに飾ってあるスクラップ記事が、当時の碧への注目度を物語っている。
テレビに出演すれば子供らしからぬ理路整然とした持論を述べ、堂々とした自分の主張を貫いた。
碧と比べれば、取り柄の少ない竜胆からすれば弟は誇らしい存在であった。
常に背筋を伸ばし、堂々と自分を押し通す碧は同時に竜胆にはとても眩しく、だんだんと近寄りがたい存在になりつつもあった。
1人きりの家でテレビを付ければ、有名司会者やタレントに混じって生番組に出演する弟。
兄として弟は誇らしくとも、逆はどうなのか。
碧は凡人である竜胆をどう思っているのだろうか。
賞の受賞を機に、弟のおこぼれで家族への取材が入った事が何度かあった。メディアの興味は両親は勿論、血を分けた兄弟である竜胆にも向かった。
それを煩わしいと思った事は無かった。
何しろメディアが取り上げる様なネタは竜胆に持ち合わせは無く、直ぐに興味は碧へと一極集中したのだから。
安堵を覚えたと同時に愕然とした。竜胆は弟との埋めがたい才能と立場の違いを、ようやく実感として得たからだ。
用意する夕御飯が一人分の日が多くなるにつれて、竜胆と碧の距離は自然と遠のいていた。
──そして事件は起きてしまった。
『え~っ。○○さんこんな問題も解けないんですか? 確か××大学卒でしたよね』
碧が出演したお昼のバラエティー番組のクイズコーナーだった。
人気絶頂の有名インテリアイドルに碧が煽り文句を放ったのだ。
場慣れしたそのアイドルはさらりと笑いに変えて見せたので、それ以降もコーナーは続き番組自体も恙なく終了した。
ただ一部のアイドルファンが、碧の発言を良しとしなかった。
ネット上で煽り文句を叩きまくり、ネットニュースが此れを取り上げた事で一気に炎上してしまった。
さらには大人やテレビで持て囃される碧を良く思わないクラスメイトが徒党を組み、虐めが始まってしまったのだ。
人間というのは集団への帰属意識が強い生き物だ。
クラスという閉鎖空間で大きなグループが出来てしまえば、はぐれ者がどれだけ真っ当な主義主張を並べ立てようとも、如何に正しくとも数と感情の暴力で押し潰される。
勉強では絶対に勝てない天才児を弱者に追い立てるのは、加害者たちにはそれなりの快感でもあったのか。
竜胆と両親が虐めに気付いた時には、もう何もかもが遅かった。
窓や廊下に投げ出された自作マシンの数々は徹底的に破壊されており、変わりに碧の部屋には武骨な鍵穴が取り付けられていた。
もしかしたら竜胆たちが気付かなかっただけで、碧は何処かで信号を発信していたのかも知れない。
竜胆はその事をずっと悔やんでいた。
当時彼は高校受験を控えており自分の事で手一杯だった。両親も初めての子供の受験とネットの炎上に忙殺されていた事も重なっていたのも不運だった。
なまじ頭脳が大人の領域に達しているだけに、碧の精神的負荷を見落としていた。
精神が未熟な小学生の男の子には、個々の悪意が寄り集った群雲──実体があやふやな巨大生物と立ち向かうのは酷というものだ。
結局。怒り狂った祖父の働きによって虐めの加害者数人には相応の処罰が下ったものの、碧の心の傷は癒えぬまま。
二年が過ぎた今も、はんだ付けの臭いは途絶えて久しい。
失われた時間は二度と回帰しない。
──けれども。失ったものの意味を探す事は出来るかもしれない。
公園から帰った竜胆はこの二年で初めて、食事を持たずに碧の部屋を訪れた。
「碧。いるよな?」
✝ ✝ ✝
どうして死にかけの猫なんて助けようと思ったのか。
碧は昨晩からずっと自問自答を繰り返していた。
──どうして。
どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテ何故何故何故何故なぜナゼなぜなぜ何故何故何故何故……。
「……あんなの、助かるわけがない」
お気に入りのFPSゲームの最新作、その店頭販売限定の特典を手に知れる為に何か月ぶりかも忘れて外へ出た。
変わってない様で変わった地元の街並は、自分が無為にしてきた時間を責め立てるようで恐ろしかった。
あと三分も歩けば兄・竜胆とお年玉を握り駆け込んだゲームショップが見える所まで来て、碧の脚は前へ進もうとしなかった。
擦れ違う通行人たちの立ち竦む碧へ向けられる好奇の視線が痛い。一刻も早く部屋へ戻りたくて仕方なかった。
恐怖心は増長する一方で、クラスメイトから浴びせられた罵詈雑言が幻聴となって這いずる。
『お前は1人でいいだろ、天才なんだから』『僕たちとは違う生物だ』『学校来るなよ!』『どうせ皆馬鹿だって見下してんだろ。俺知ってんだよ』『そうなの、酷いよ片桐君』『人でなし』『人でなし』『人でなし!』
耳を塞いでも、声は止まない。
金縛りにあったように身体が動かなくなり、碧はパニックに陥りかけていた。呼吸は早く浅く不規則なものになり、視界がどんどん暗くなる。
──助けてよ。誰か助けてよ!
必死に叫ぶ。だがそれは声に出来ず、虐めにあった時の様に自分で自分を追い詰めてしまう。
そう。結局誰も助けてはくれなかった。
両親も、担任の先生も、兄でさえ。
だから今回も誰も自分に寄り添ってくれる人はいないのだ。
いつの間にか降っていた雨は碧の身体から容赦なく体温を奪い、彼へ追い打ちを掛ける。
──もういっそ、このまま倒れて楽になろうか……。
酸素不足の苦痛の中で、ふっと浮かんだ甘い誘惑に身を委ねようとした時だった。
けたたましいブレーキ音と、小さなドンッという肉を打つ音。
二つの音に引き寄せられる様にクリアになった碧の視界には、ピンボールの様に濡れたアスファルトを跳ねる小さな矮躯。
道路に転がった“それ”は苦しみもがき、大量の朱を吐き出し、悲鳴にもならない声を零す。
「ああ、あアあっ、あぁああああああ!!?」
気付けば碧は“それ”を抱えて走っていた。
撥ねた車の運転手の制止すら振り切って、痩せこけた脚で地面を蹴った。
身体の衰えは酷いもので、何度も躓いて転んで身体に擦り傷を作り続けた。
だがそんなものはどうでも良かった。
嫌だった。
理不尽な暴力で自由を、思想を、命の尊厳を奪われるは見たくなかった。
いまにも消えそうな命を抱えて、どうやって帰ったか覚えていないが碧は体当たりするように家の玄関に飛び込んだ。
リビングから顔を出した少年から青年へと変わっていた竜胆に、碧は縋る想いで助けを請うた。
「──兄、さん。た、助け、助けてくれッ!」
切れ切れの息を縫って、懇願する。
竜胆は碧の有様に驚いたものの、直ぐに碧の手の“それ”を受け取ると、碧を脱衣所に押し込んだ。
直ぐにシャワーを終えた碧はリビングに駆け込み、段ボールに横たわる“それ”を初めて直視した。
酷い有様だった。
どうして生きているのか、不思議なくらいに。
「助かるよな? なあ、兄さん、こいつ、大丈夫だよな?」
縋るような思いで竜胆へ聞くも、兄は眼を伏せた後、キッパリと口にした。
「ちゃんと身体拭いとけ。あとはこの子に最後まで付き添ってやるしか、俺達に出来る事は無いよ」
ガシガシと髪を拭く竜胆の言葉が遠かった
こんな小さな命でさえ、誰にも助けられず死んでいく。
理性が感情に追い付かず、涙が止めどもなく零れ堕ち、段ボールの中からか細い息吹が途絶えた時、何かが決壊して竜胆に当たり散らした。
暴れた拍子に段ボールを蹴飛ばしてしまい、冷たくなった矮躯が転がる。
それを見て今更のように嘔吐感に苛まれ、碧はトイレに駆け込んだ。
胃の中が空っぽになった後もえずきは収まらず、吐瀉物に胆汁が混じり始めたあたりでようやく収まった。
それでも感情の歯止めは壊れ、眼につくものに手当たり次第拳を振り回した。
心より先に身体が力尽きて、それに引き摺られる様にして心は落ち着いた後は、ノロノロと自室へ籠った。
いつもの様に竜胆が運んで来た食事にも手を付けず、碧は毛布に包まったまま。
身体は空腹を訴えて久しいが、何も口にする気にはなれず。
ぼうっと光を遮断した部屋へ視線を投げるだけ。
何も考えたくはない。
考えたくはないのに、どうやっても“あれ”の最後が眼に焼き付いて離れない。
誰もが気付いてくれず、気付かないフリをして、助けてくれない。
昔の自分と無意識に重ねてしまったから、拾ってしまったのか。手遅れと分かっていながら、痩せこけた心を偽善でも何でもいいから埋めたかったのか。
だとすれば、とんだ独善っぷりだ。
思わず、乾いた笑いが碧の口から漏れた。
二年前に碧が吊るされる事になったキッカケは、思慮が至らず、天才児と持て囃され天狗になっていた自分が原因だ。
自分で何でも出来ると、見栄を張ったしっぺ返しを受けたに過ぎない。
それが今更善人の真似事をしたところで、何を取り戻せる訳でも、満たされる訳でもないものを。
「……馬鹿だな、俺」
だが今更自覚したところで、碧にはどうすればいいか分からなかった。
二年間。俗世から自分を隔離したいま人並みに外を歩ける勇気も、居場所も、寄り添ってくれる人もいない。
なら、もう此処にいるしかない。
ここにいる他、碧は生きる術を知らないのだ。
「碧。いるか?」
だから、扉越しに竜胆の声を聞いた時は耳を塞ごうとした。
しかし、その後の兄の言葉に碧はどうしようもなく動揺した。
「俺な──いま公認心理士になる勉強をしているんだ」
昨晩振るわれた暴力を咎めるでもなく、浴びせられた暴言に苦言を呈するでもなく、竜胆は自分の胸の内を碧へ告げる。
──公認心理師。
心の問題を抱える人に寄り添い、治療と相談、解決へと導く人。
碧も軽い知識程度ならある。
民間資格の臨床心理士と異なり、公認心理師は国家資格。それも前者は研究調査に主軸を置いているのに対して、後者は患者の隣に立ち最前線で戦うものだ。
国家資格ゆえに指定の大学院を卒業し、試験をパスしなければならない。
それを、あの兄が?
「虫がいい話だけど、お前がこんな状態になっちまったから目指そうって決めたんだ。まあ凡人の俺には茨の道だろうけどな」
なんでこんなに才能が違うんだろうな、と竜胆の空笑いが響く。
気付けば碧は毛布から抜け出していた。
「……碧。ずっと謝りたかった。ゴメンな、苦しい時に傍にいてやれなくて。苦しかっただろう。辛かっただろう。叫び出したいだろう。……昨日は少しでもその気持ちを吐き出せたか?」
扉の前に移動した碧は最後の言葉にハッとする。
思い起こせば、あの時竜胆はただ何もせずに碧の拳と暴言を受け止めていた。
自分の無力を棚に上げて、子供の癇癪となんら変わらない碧を竜胆はただ一度も咎めなかった。
「もしまた吐きたくなったら、遠慮なく俺にぶつければいい。俺じゃなくても、父さんでも、母さんでもいい。何でもいいから胸にあるもの全て吐き出してしまえ」
優しい声音。
いつも食事を運んでくる時、必ず扉に耳を当ててから、声を掛ける時と変わらないもの。
「それで少しでも心に余裕が出来たら、ほんの少しずつでいいから考えてみてくれ。この二年間で蓄積したお前の苦悩の意味を」
「……苦悩の、意味……?」
いったいそれはどういう意味だろう。
この何も無かった二年間に、どんな意味を見いだせというのか。
「正直な、公認心理師になったところで俺はお前の気持ちを代弁する事は出来ないと思ってる。俺に発信できるのは家族としての視点だけ」
膝から力が奪われるようだった。
眼の前が更に暗くなり、絶望に捉われそうになる。
「そんな、じゃあ。俺は、やっぱり誰にも、助けてもらえないの……?」
裏切られた様な気分だった。
兄が心理士になれば、きっといつかこの部屋から自分を掬い取ってくれるかも。そう甘い期待をしていたからだ。
またしても幻聴が聞こえ始め、涙が零れる。
事実、竜胆は碧の期待を裏切った。
ただし、それは碧の想像とは違う方向でだ。
「碧、あの猫を助けようとしただろ? 誰よりも余裕のないはずのお前が」
その竜胆の言葉は、何故だがすぅっと胸に吸い込まれた。
ぎぃ、と扉に寄りかかる気配を感じ、碧は顔を上げる。
「優しい弟だよ、お前は。自分の事で一杯いっぱいのお前が、死にかけの猫を助けようと傷だらけになりながら走ったんだ。家族として、兄として、どんな賞を受賞した時よりも誇らしいと思う。嘘じゃないぜ?」
またぎぃ、と扉が軋む。
「優しい天才の“いま”を経験したお前だからこそ、伝わる事がきっとある筈だ。凡人の公認心理士なんて肩書だけじゃ、本当に助けを必要としている人たちには伝わらん。きっとこの二年間には意味がある筈だ」
噛んで含める様に語りける兄の言葉に、碧はいつしか耳を傾けていた。
幻聴はいつの間にか消え、胸を締め付けていた恐怖心もいまは遠い。
「前回は間に合わなかったけど、今度は何があっても傍にいてやる。自分のタイミングで少しずつでいいから外へ行こう。それまでに俺も少しでも頼りがいのある兄になっておくからさ」
なにがあっても味方だ。
最後にそう言葉が掛けられ、扉から気配が離れていった。
後には小さな嗚咽が遺されるのみ。
固く閉ざされた扉が開くまであと、もう少し。
✝ ✝ ✝
数年後。
公園の一角に二人の青年が脚を運んでいた。
「なあ、いつも思うけどもうちょい真面な墓を作れなかったのか? これじゃ精々が真新しい遺跡だぜ」
「メンタルヘルスAI開発の第一人者の発言にしては矛盾してるぞ、弟よ」
「ふむ。確かに不器用な兄に物づくりを求めるのは矛盾だな。すまん、失言だった」
「宜しい。兄の能力限界ぐらい見極められなければ、AIの実用化なんぞ夢のまた夢だ」
「ツッコめ、馬鹿兄。いじめ問題で有識者会議にまで呼ばれたホープが弟に舐められてどうするっ!」
「体面は別に気にせん」
「気にしろよ」
彼等の手には『感謝』の花言葉を持つフウリンソウ。
彼等の足元にはミャアミャアと可愛らしい声を上げる愛玩動物の群れ。
よくよく周りを見渡せば、そこかしこに猫がのんびりと自由を漫喫しているのが見えるだろう。
この街は近年二人の青年による目覚ましい活躍によっていじめ問題と猫の交通事故が激減していた。
彼等がよく訪れる公園を『片桐公園』なんて呼ぶ近隣住民も多いとか。
ただ青年らがこの公園でひっそりと手を合わせる理由を知る者は、誰もいない。




