31
昼には、カナンの過去についての噂はクラス中に広まっていた。林はにやりとしてこちらを見てきた。頭に来る。
結城が林の胸ぐらにつかみかかって、睨み付けた。
「暴力?先生に言うから」
舌打ちをした結城は、手を離した。そして、同じような顔でただ睨み付けていた。
「あんたとあたし、どっちが悪いと思う?」
「そりゃ、殴った方じゃない?」
「そ。じゃあ、たぶんあたしが悪いのかもね」
結城がいきなり、林の頬をぶった。教室が静まりかえる。
「いい加減にしなよ!どうしたって、あんたは変わんない。人を蔑んだって、なんにもかわんない!惨めなのはあんたのほう」
林は頬を手で拭いた。それだけだ。冷たく、どろっとした目で結城を睨み付けて、口を開いた。
「本当にそう思ってる?あんな風に惨めに発狂してるような奴が、私より惨め?惨めになってるのは、どっちだろうね」
そう言うと、学校のチャイムが鳴った。
帰りのホームルームで、学級会の時間が開かれた。二階堂と、月波も、楠先生に頼んで、参加させてもらった。だけど、部活の皆や先生には見守っておいてもらうことにした。
これは俺がやるべきことだ。
俺は黒板の前に立った。言うべきことは考えてきたし、練習もしてきた。林や川中、花田や山村がどう反応するかはわからないけど。もちろん、グループって言っても、林のグループ以外は考えの統制を取ってないから、実際は皆がどう反応するかもわからない。グループとしては、林以外は皆そこまでキツい性格じゃない。ただ楽しむために集まってるだけだ。暴力で圧をかけたり、誰かをやり玉に挙げるようなタイプじゃない。
金と紅の夕陽が、教室全体に差し込んでいる。きっと今なら、坂からの眺めは綺麗だろうな。風が吹き込んできて、陽で金色に輝くカーテンを揺らした。窓際の生徒の髪や服が揺れる。声、足音。廊下から聞こえる喧噪。たったひとつ空いた机以外には、全員が揃っている。ロッカーの鞄、並んだ電灯、磨りガラスの中窓、窓がはめ込まれたドア。
天文部の仲間と目が合った。二階堂と結城は凛とした目線を送ってきている。月波は、保健室で見せた時みたいなゆったりとした笑顔を見せてきた。しっかりしろってことと大丈夫だ、ということらしい。俺は頷いた。俺はやれる。
「まず、皆に広がってるカナンの噂は、確かに本当だ」
クラスはどよめいた。やっぱり、あいつがそんなことするなんて思ってもなかったんだろう。俺もそうだった。
「確かに、昔カナンはそういう風だった。でも、今は違う。今はあんなに普通の奴で、それは皆だって一緒に接しててわかるだろ?でも、今は暗闇が怖いんだ。だから皆もわかってほしい。トラウマを刺激するようなことを控えてくれれば、あいつはなんにもしないよ」
「えー、でも怖いなー。だって、人の頭を金属バットで殴るような奴じゃん。前だって、花田を押し飛ばして気絶させてたし。あたしこわーい」
林のグループの一人が、そうやって言った。あっちも、グルでやっているみたいだ。
「こっわ。犯罪者じゃね?」
「ねー」
「っていうか、わざわざこんな所で話し合う必要あるわけ?どうせ私への当てつけなんでしょー?」、満を持したように、林は言った。
「本当はこんなことしたくなかったんだ。でも、林はやめる気ないから、こんな学級裁判みたいなことをしなきゃならなかった。俺には林を止めるのは難しそうだからね」
「ふーん。でも、こんなことしたら余計話題になっちゃうと思うけどなー」
林が口の片方をつり上げた。
「早く終わらせてくれよ。時間を無駄にしたくない」、川中が指で机を叩いた。
人の事なんて気にもとめない、自分勝手な奴らだ。
「おい、二人ともそんな言い方ないだろ」、花田が言った。
「元々、お前が柊にちょっかいかけたり林をふったりしなきゃこうならなかっただろうが」川中が嘲笑するように言った。カフェであんなそぶりを見せたのが嘘だったのかと思えるような態度。
「なんだと!?」、花田が立ち上がった。
「クソ女どもの小競り合いと恋愛ごっこなんて、芸能人の死亡記事ぐらいどうでもいいんだよ」
「今、私のこと言ったの!?」、林が叫んだ。
川中が目を見開くと、林は怯えたような表情を見せた。
「柊もお前もクソ女だよ。わかんねえのか?そんなに嫌いなら柊を屋上から突き落とせよ。どうせあいつなら、自殺したと思われるだろ。あいつの持ってる薬の量凄いぜ」
かちんと来た。こいつをぶん殴ってやりたいほどだった。なにか言おうと思った。だけどずっと黙っていた先生が、急に口を開いた。
「あなたは停学です。川中君。家で休んでいなさい。そして自分の言動と行いを反省すべきです。今までやってきたこと、まさか私が知らないとでも思っているんですか」
先生は見たこともないようなほど真面目な表情と口調で、そう言った。結城を怖がっていたときが嘘みたいだ。川中は嘲笑するように鼻で笑った。
「ま、先生には昔の事なんてわからんでしょうね」
「君は自分が可哀相な被害者だと、自分のことを思い込んでいます。ですけど、それは思い込みですよ。この世界はもっと暖かく、柔らかなものです」
「それも同じように思い込みですよ。自殺や大量殺人をした奴にそれを言ってみてください。夢みたいな事しか言わない、これだから女は嫌いなんだ」
鼻で笑い、荷物をまとめて帰ろうとする川中を、俺は止めた。
「帰るなら、これが終わってから帰ってくれ。まだ必要だ」
川中は動きを止めた後、席に座り直した。
昔の事なんて、誰にもわからない。
だが、今のことはわかる。ここでは全員を納得させることが必要だ。ここでこいつを帰せば、今度はこいつが敵に回るかもしれない。
「こんなことしたって、意味はないかもしれない。だけど、俺は言いたかったんだ。二人とも、間違ってる」
林は嘲笑するような顔で、川中は上の空だった。
「私は事実を言っただけなんだよね。それについて責められるっておかしくない?もし責任があるなら、柊さんの方だよね」
「だけど、それはもう昔の話だ」
「だったら犯罪も昔の話だし、警察いらないよね」
「今林がやってるのは私刑だろ。ただの虐めじゃないか」
「だったら法律がいいの?たぶん余計まずいことになるかもだけどね」
「林のその理由だって、ただの嫉妬じゃないか。出てって欲しいんだろ、学校から。それで。しょうがないけど、理由を言わせてもらうよ。林は花田に振られて、でも花田はカナンのことを好きだから。それに林はカナンにソフトの実力でも負けてて気に入らなかった。それで林はむかついて、カナンを学校から追い出そうとしてるんだろ。本当は昔の事なんてどうでもよくて、ただ追い出したいだけなんだろ」
林の目が見開かれて、最も大きくなった。
「サイテー、そんなこと言う必要ないでしょ、キモい!」
「言うしかないね。だったら、もっと色んな林についての過去を言うしかない。そういうことだよ。警察はなにかあったとき一番批判されるだろ?人を批判するなら、自分が批判されることも覚悟しなくちゃダメだね。他にももっと、色んな事を知ってるよ」
林と同じ中学だった人から、林について色んな事を聞いた。林が昔他人を虐めてたり、高校デビューする前は、ソフトボール部でケジラミにやられて頭を丸刈りにしてたことがあるとか、その他あんまり聞かれたくないようなことを沢山手に入れた。
そいつは林のことが嫌いで、結構険悪な状態だったらしい。林は昔から、こういうことをしていたらしい。悪い噂を流して、人を貶めて、自分は正義面する。そういう性格だ。
林が少しの間、唇を嚙んで黙っていると、川中が口を開いた。
「それで、おれが間違ってる理由は?」
「言わなきゃわかんないのかよ」
「言う義務はあるだろ?」
「全部だ」
「そう言われたらどうしようもないな」、嘲るような口調。
「そういう、人を小馬鹿にしたみたいなところもだ」
「間違いなのは、生まれたことだよ。世の中カスばっかだ」
そういうと、川中は上を向いて黙った。代わりに、林が話し始めた。
「あんたも、人のこといきなり私怨扱いするのってのも中々だよね。実は私も、中学であんたのこと聞いたんだ」
心臓が大きく跳ねた。心臓の鼓動のペースが上がってきた。
「あんたってさ、中学生の時彫刻刀で人の顔切りつけたらしいね。そんな正義面してたって、あんたもしょせん犯罪者じゃん。だから柊のことかばってたんでしょ。超ウケる」
教室がざわめいた。
そうだ。それは事実だ。でも、そんなこと、林に言われる筋合いはない。気持ち悪くなってきた。
「でも、あの時は・・・・・・」、言葉が詰まった。ろれつが上手く回らない。
「先生、こいつも停学にしたらどうですか」、川中が嘲った。
言いたいことがあっても、口が上手く開かない。心臓の音がとてもうるさい。
「違う・・・・・・」
「なにが違うの?相当イカれてるよね。普通退学ものじゃない?大人しそうな顔しといて」
「図工の、授業の時に・・・・・・」
「ねー、皆聞いた?矢神ってそういう奴なんだよね。なんでじゃああたしがそんな奴の話を聞かなきゃならないわけ?」
林のグループから嘲笑が飛んできた。クラスの皆も、冷たい目線や動揺したような視線を送ってきている。
「とっととこれ解散したら?あんたみたいなのに言われたくないんだよね。犯罪者」
林は完全に勝ち誇ったような顔をして、そんな声色を出している。
「俺は、違う」
「また人を切るわけ?こっわー」
「今は、柊さんと林さんの話をしているの。矢神君の話は、関係ないでしょう」、二階堂が割り込んできた。
「見た?鉄パイプさんが彫刻刀クンをかばったの」
林とそのグループが笑った。くそ、気持ち悪くなってきた。地面がぐらぐらする。机に手をついて、息を整えようとしたが、だめだった。
「あの時は、図工の時、たまたま、持ってて、それで椅子で殴られたから、つい手を振ったら、それで切っただけなんだ!わざとじゃない」
「はい嘘ー。そんな言い訳、通用するわけないよね」
「違う、本当だ・・・・・・」
中学二年の時、図工の授業中、相手の男子と喧嘩になった。木材を切っていたときに、口論になって、椅子で殴られた時に振ってしまった。
相手の頬が横一文字に切れて、びっくりするほど相手が酷く血を流した。その後、先生に怒られて、警察沙汰になった。親にはたかれ、先生に責められて、相手の親にも金を払って、警官に不良少年として取調室でなじられて、殴られた。そして退学にさせられかけた。
思い出してしまった。吐き気と寒気がわき上がってきて、ひどくめまいがする。
心臓が叫んでいるようだ。
「違う、椅子で殴られたから・・・・・・」
「違わないでしょ」
林のグループは林ともに笑った。地面が揺れている。視界が大きくぶれる。息が切れ始めた。
「違う」、俺は叫んだ。
「こっわ。また人を切るわけ?」
俺はなにも言えずにただ机に手をついて、体を支えていた。
「あーもう無理。さすがに黙ってらんない。あんたのやってることと、矢神がやったことにあんたはなんの関係もないでしょ!」、結城が助け船を出してくれた。
「は?こんな奴に断罪されたくないってことなんですけど。第一私になんの責任もないじゃん。脛に傷持ってる方が悪い。それだけの話じゃん。本来なら少年院入るような奴が、野放しになってるんだよ?ま、あんたみたいな港のヤンキーはチェーンで人殴ってるような奴だし、法律の事なんてわかんないかもしんないけどね」
「あんたって奴は!」、結城が立ち上がりかけた。
「結城さん。落ち着いて。大丈夫よ、きっと」
そう言うと、二階堂は俺にウィンクを飛ばしてきた。
「頑張って、矢神君」
月波が、俺に笑いかけた。なぜだか、急に安心した。深呼吸して、息を整えた。大丈夫だ。俺には、仲間がいる。
「中学の時、確かに俺は喧嘩でわざとじゃないけど、人を切ってしまった。でも、もう警察や親とも、そいつとも話をつけた。だから、林に言われる筋合いはないんだ。もう、終わったことだ。だからそんなことは、関係ないんだ」
自分に言い聞かせるのが半分、皆に伝えるのが半分だった。
「それで贖罪したつもり?」
林は、俺をあざ笑った。すると、花田が急に立ち上がった。
「もういい加減にしろよ!見損なったぜ。俺は確かにお前の告白断ったよ。それは悪いと思ってる。だからって、こんな仕打ちはないだろ。確かに柊は昔なにかしたんだろうな。矢神も人を切ったし、二階堂は鉄パイプで人を殴った。結城もチェーンで人を殴った。だからなんだよ!皆それぞれ話はもうついたんだろ。なのに、昔のことを持ち出して、攻撃の理由にするのは間違ってるだろ!だったら川中にも同じ事やってみろよ。怖いから、出来ないんだろ!そんなのは正義じゃない!しかも理由が、柊のことか。俺が、柊の事を好きだからって、そんなことすんのかよ。ああ、俺は柊のことが好きだ。だからなんだ!お前にそんな権利はないし、俺は柊と矢神の味方につく!お前のこと嫌いじゃなかったけど、今は嫌いだ」
花田が叫ぶように、言い終えた。林の顔色が悪くなった。
「ふ、ふーん。嫌ったからなに?好きだから犯罪者の味方につくわけ?あんたも所詮そんな奴だったんだね。知り合いだったら、犯罪でも黙認するわけなんだ。そういう人がいるから、事件が起こるんじゃない?犯罪者予備軍!」
「もう聞きたくない。黙ってろ」、花田は冷たく言い放った。
「サイテー。私もこんな奴好きになったのが間違いだった。はー、馬鹿みたいだよね。このクラス、馬鹿ばっかで困るわー」
今度は川中が口を開いた。
「話が長くなりそうだから、俺からも言わせてもらう。やるなら一人でやれや。おれたちは関係ねえだろ。なにかしてほしきゃ、金でも払え。天文部も気にくわねえが、てめぇが一番気に入らねえ。なぜ恋愛の話におれが利用されなくちゃならんのだ。こんな回りくどいやり方でドヤ顔しやがって。裁判官のつもりか?それに、関係ないお前が勝手に復讐する権利はない」
川中は、人を刺そうとした時みたいな、怒りに満ちた顔をしていた。
「そんなこと言って、柊に一番虐められてたあんたはなにもしてない癖に。女に虐められた弱虫。仕返しも出来ない、口ばっかのキモオタ」
クラスの空気が凍りついた。林ははっとして、やばいことを言ったと自覚したらしい。だが川中は怒らず、目を少し開いただけだった。
「もしあいつに復讐をしたら、色んな奴にしなきゃならない。それに、それでもあいつはマシな方だ」
そういうと、視線を手元のスマートフォンに戻した。
「まあ、林さん。もう分が悪いよ。私も早く帰りたいし、もうやめよ?」、山村は気だるげに言った。林は冷や汗をかいている。
「林さん。もう諦めたらどう?柊さんにも昔過失があったことは確かだわ。だけど、あなたのやり方は違うわ。勝ちたいなら、同じジャンルで正々堂々と勝ちなさい」、二階堂は呆れたような声を出している。
林は黙って口をつぐんだあと、また顔を上げた。
「皆おかしいよ!犯罪者だよ!?あいつは!どうして皆かばうの?あいつがかわいいから?今皆に媚びたようないいかっこしてるから?昔の事なんてどうでもいいわけ?」
俺があいつをかばうのは、可愛いからなんかじゃない。昔の事をどうでもいいと思ってる奴も、思ってない奴もいる。
沢山の考えがあるだろうし、俺はどうでもいいと思ってるわけじゃない。
でも、昔のことは変えられない。
だから、今や未来だけは理想であってほしい。それは誰かの理想じゃないかもしれない。林は違った理想を描くだろう。
林はカナンを蹴落としたい。川中はカナンに立ち直って欲しいのかもしれない。花田は全国で優勝したり、カナンを彼女にしたいのかもしれない。二階堂はきっと誰かを助けて回りたいんだろう。月波はたぶん誰かと、ヴァージンロードを歩みたい。結城もたぶん、普通の暮らしがしたいんだと思う。それは人の数だけある。
でも、俺は自分勝手だ。だから、俺の理想が実現されることが一番嬉しい。そしてそれは林の理想とは大きく違う。だから、受け入れたくはない。
「昔のことがどうでもいいわけじゃない。それで傷ついてさ、今でもそれを覚えてて、ずっと忘れない奴だっている。でも、カナンは、皆に謝ってまわって、許してもらった。俺も、切った相手とは互いに話をしたよ。確かに、罪はあるかもしれない。だけど、一番カナンにやられた川中だって、林の行動には反対してる。それを全然関係ない林が、悪意のために利用しようとするのは違う」
皆が林を冷たい目線で見つめた。林は周りを見回して、叫んだ。
「く、うう!これじゃ、私が悪者みたいじゃん!おかしい!なんで?私は事実を言っただけじゃん!あんな奴がもてはやされてるの、絶対おかしいって!なんであんなだった柊が、人気で、なんでも出来て、野球でもソフトでもエースだったの!?なんで花田も、あいつのことが好きなの?世の中間違ってる」
そうだ。才能なんて誰にでもあるわけじゃない。昔見たことがある。そいつは運動も勉強もなんでも出来て、確か今は県で偏差値一番の高校に行ってる。カナンは顔も良くて、県でも最高クラスのチームのエースだった。確かに才能は平等じゃない。
「世の中は確かに間違ってるかもしれない。けど、今ここで、一番間違ってるのは、林だ」
そう言い終わると、林はうつむいて、ため息をついた。
しばらく下を向いて、なにかを考えたあと、諦めたように顔を上げた。
「わかった。わかったよ。私が間違ってた。もうなにも言わない」
「林、もうカナンについての事を言わないって約束してほしい。そうすれば、また学校に戻ってこられるんだ。そう約束したから。いいよな?」
「わかった」
もしこれが林の打算だとしても、それでもいい。目標はその行動をやめさせること。戻ってこれるかどうかということだけだ。裏でひっそりと行われる陰口だけなら、公認されてしまったいじめよりよっぽどいい。
「皆も、今回のことがあったからって、林のことを悪く言わないでほしい。それじゃ、またカナンの時と同じ事になる。昔のことはもう終わったことなんだ」
きっとそんなことは、あいつも望んでないはずだ。あいつは、もう人を傷つけたりしようとするような奴じゃない。そうだったとしても、俺が止める。
そうすると、楠先生はぱんと両手を叩いた。
「じゃあ、これにて一件落着ですね。先生はちょっと外に出させてもらいます。用事があるので。でも、まだ伝えることがあるので、待っていてください」、先生は教室から出ていこうとした。だけど、その前に俺の方を向いた。
「矢神君。よく、頑張りましたね」、先生は微笑んだ。
「っ、はい!」、俺は答えた。少し、涙が出そうだった。
出ていったとたんに、教室がいつもみたいにざわつきはじめて、元の雰囲気に戻った。
「ったく、停学にしやがって。職権乱用だろ。それに林は停学じゃねえの、おかしいぜ。全員おかしいね」
川中は机に両足を乗せて、自分の家みたいにくつろいでいる。
「おかしいと、本当に思っているわけ?」、二階堂が氷よりも冷たい声で言った。
「表現の自由は憲法に保障されてる。そうだろ?」
今度は、二階堂が鼻で笑った。
「本当におかしいのは、あなたの頭よ。周り全員がおかしいと思ったなら、まずは自分を疑いなさい。それでもおかしいとわからないのなら、黙っていなさい。倫理観もなく、他者へ冷淡で、残酷なのに、被害者ぶって、自分を正当化するその態度がおかしくないと思うなら、あなたは野蛮人ね。林さんも、反省すべき所はあるわ。その試みも正当化されるものじゃない。だけど、あなたはもっといつも自分以外の全てを見下し、人を罵り、なじり、あざ笑って、他人を物みたいに考えている。そういうことが法律の問題だと思う?ビリヤード場のことだけでも、退学もので、いつも凶器を持ち歩いてるのに、停学でもまだ文句があるわけね?であれば、警察に証拠を提出しましょうか?この冷血漢」
「それは、お前もなんじゃないのか?」、川中は鼻で笑って、仲間と話し始めた。
二階堂と月波が、教室の後ろから、俺たちの席へ向かってきた。
「はぁ、ようやく彼女は戻ってこられそうね。長かったわ。せっかく出来た友達が、いきなり不登校なんて、そんなことあったら・・・・・・」
二階堂はぐすぐすといわせながら、袖で目元をぬぐっていた。ずっと不安だったのかな。月波や風間さんも、心配してたもんな。だけど、もうその心配は無い。
「あんたも泣くんだね。意外。もっと最初はロボットみたいな奴だと思ってた」
「そんなことないよ。人前だとかっこつけてるだけなんだよ、とうかちゃんは」
「余分なこと言わなくていいから!」
「やーい、泣き虫」
「泣き虫じゃない!」
「二階堂も、もっと素で行ったらいいんじゃないかな。そしたら、もっと友達出来るかもよ」、俺は相づちみたいに言った。
「そうかしら。でも、かっこつけたいわ」
四人で少し笑った。
「でも、ほんと、よかったよ。そうじゃなかったら、スイーツの味が、苦くなるじゃんね。ね、さ。今度どっかで皆で遊びに行く?地元のいい感じのとこ行かない?」
「警察に補導されるわよ」
「もうされてるじゃん?あんたは捕まったし。今更気にすることでもないっしょ」
「これ以上は、両親に申し訳が立たないわ・・・・・・」
「いいのいいの、そんな事気にすんなって。迷惑かけてやんなよ。あんたは大事な娘なんだからさ」
「そっちは、どうなの。ずいぶん迷惑かけてそうに見えるけど」
「まぁね。二倍ぐらいかな」、結城は少し含みを持たせたような言い方だった。
「それに、これで天文部、廃止しなくてもよくなったね」
「そうね。伝統ある部活を守れてよかったわ」
月波はこちらを向いた。
「夏休みになるとね、お泊まり会があるんだ。星を見るって口実で、学校に泊まれるんだ。一日中夜の学校で、おしゃべりできるよ~?」
「それはいいね。面白そうだと思う。なにか持ち込めるのか?」
「ゲームとかもなんでもいいと思うよ?上の学年の先輩、エアガン持ち込んで撃ち合ってたし」
「へー、凄いな。星は見えるのか?」
「だいたい見えないんだ。いっつも、曇りなんだ。今年は晴れるといいんだけどなぁ」、そう月波はぼやいた。
「ヒロ、あんた今の気分はどう?」、結城はこっちに話を振った。
「いい感じだよ。これで毎日安心して過ごせそうだ。よかった。本当に」
「あんたが一番頑張ってたもんね、えらいえらい」
結城は俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「やめろよ」、俺は少し笑った。
「わたしもやる」、月波が俺の頭に手を置いて、二倍のわしゃわしゃが始まった。
「じゃ、私も」、二階堂も参加して、三倍になった。
「やめろよ」
「よいではないかー、よいではないかー!」、月波が笑った。
「うりうり~」
「子犬みたいね」
三人が一通り俺の髪をくちゃくちゃにした後、手が離された。恥ずかしくて、顔が真っ赤になる。
あたりを見回すと、教室の皆が俺のことを見ていたみたいで、そしてまた皆は別の方を向いた。
「これで、また元通りだな」、俺は呟いた。
花田がこちらを向くのが見えた。
「だけど、昔、柊がそういう奴だったってのは本当なのかよ。とてもそんな風には見えないよな」、花田が俺に言った。
なにか答えようと考えていると、教室のドアがいきなり開いた。そこにいたのは前みたいに暗い顔でなく、真面目な、だけど元気そうな顔のカナンだった。
「うん、そうだよ。今の話は全部、外で聞いてた」
カナンは教卓の前で立っている。久しぶりに、制服を着た姿を見た。その後ろに、楠先生がたたずんでいる。
「どうしてここに?」、俺は聞いた。
「先生に呼ばれてきたんだ。保健室で待ってなさいって言われて、今来たの」、そう言うと、皆に深く頭を下げて、顔を上げた。
「ごめんなさい。今まで過去のことを秘密にしていて。誰にも知られたくなかったんだ。罪悪感があったから。私が人を虐めたりしたことがあるのは本当だよ。6年間、そういう風でした。だけど、最後は自分がされる側になってから、ようやくわかったんだ。たった半年で、自分がやってたことをね。それをしていた皆に謝って、許して貰ったんだ。一人をのぞいて、だけど」
そして、金の瞳を自分で指さした。
「実はこの目の色は、カラコンじゃないんだ。ボールが目に当たって、失明しかけて色が変わったんだ。それを隠すために、ああいうキャラを演じてたんだ。だから暗闇が怖いんだ。ああいう感じになっちゃうの。ごめん、花田。押し飛ばしたりして」
またカナンは頭を下げた。
「いいよ、そんなの。たいしたことじゃない。俺だって悪かったよ、あんなことしてさ」
「それより、さっきかばってくれて嬉しかった。ありがとう」
「ちょっと待てよ。さっきの聞いてたのか?」
「まぁね。返事は、ごめん、だけどね」
「わかってたよ」
花田はため息をついて、うなだれた。それで、花田の仲間は笑った。だけど、それは暖かい笑いだ。そして、カナンは林の方を向いた。
「林さん。思い出したよ。県大会の準決勝の時、六番でファーストをやってたよね。林さんだけ、あのチームでなぜか抑えられなかった。結構いいのも投げたと思ったのに、ファールで私の球、粘ってたよね。私が焦って棒球投げた時、打てたよね?どうして、打たなかったの?」
「監督からの指示で、球数を稼げって言われてたから。肘、痛めてたでしょ。打てたのに。つまんないやり方だった」
「今度は、普通に勝負しようよ。私、もう完全に痛めてて、あの頃みたいに投げられないけど」
「ほんとは、柊がソフトやめたの、むかついてた。あれだけ才能があったのに、やめてたなんて。信じられなかった。でも、肘をやっちゃったなら、仕方ないよね。わたしが悪かった」、心からの謝罪に見えた。本当かどうかはわからないけど、本当だと思いたかった。
「言われるようなことをしたのは、私。納得してくれて、ありがとう。悪いことをしたのは私なんだから」
「わたしが一番むかついてたのは、柊がわたしのことを忘れてたことかも」
「ごめんね。いい勝負をした相手を忘れるのは、失礼なことだもんね」
林は、もう完全に反省したようにも見えた。次にカナンは川中の方を向いた。
「もう、私は大丈夫。心配や面倒はもうかけない」、昔みたいな喋り方で、川中に約束していた。
「これからはちゃんと天文部を飼い慣らしてくれよ、エース。こいつら狂ったチワワみたいだぜ」、半笑いで、俺たちの方を指さした。
「それあんたが言う?でも、もう平気だよ。ヒロも、皆もいるから。これで、謝罪になった?」
「ま、それで充分だ」、川中はにやりと笑って、荷物を持って教室から出ていった。
狂ったチワワってなんだよ。最後まで煽ってくなぁ。カナンは二階堂の方に顔をやった。
「とうかちゃん。色んな事をしてくれたみたいで、本当にゴメン」
「人として当然のことをしただけだから」
「迷惑、かけたよね。諦めずに何度も叱ってくれたことや、あの夜助けてくれて、停学になったこと、一生忘れないから。皆、たぶん知ってるかもしれないけど、二階堂さんが停学になったのは、乱暴してきた不良から私達を助けてくれたからなんだ。ありがとう」
「恥ずかしいから、やめてよ」
皆二階堂を見て、感嘆の声を上げている。二階堂は顔を赤らめながら、咳き込んだ。
そして、結城を見て、口を開いた。
「レオちゃん。私のために怒ってくれて、ありがとう。私、最初レオちゃんのことヤンキーだと思って怖がってたけど、間違いだったね。ごめん」
「別に、たいしたことじゃないし。あたしって、そんなに怖く見える?」
「まぁ、見た目通りには?」
「へー。じゃ、今度なんか奢ってよ。それで許してあげる。イチゴのショートで。一番美味しいのがいいね」
結城は、カナンに軽くウィンクを飛ばした。
その後、カナンは月波に向けて微笑みかけた。
「さゆりちゃん。こんな私に優しくしてくれて、ありがとう」
「それぐらいしか、できることなかったから。それよりも、最初にああなったのは、わたしのせいだと思う。ごめんね」
「いいよ。もうたぶん、大丈夫。もっと思い詰めてしまうより、今治ってしまう方がよかった。別にああならなくても、私は毎日怖がってたんだ。たぶんだけど、もう大丈夫になったから。だから、ありがとう」
そして、楠先生に頭を下げた。
「先生、私のために時間を取ってくれてありがとうございました。それに、皆も付き合わせちゃってごめんなさい。こんな私をまた、このクラスに受け入れてくれますか?」
すると、また教室がざわついた。
「当たり前だろ」
「がんばれー」
「あのキャラやめるの?」
「心配したんだよ」
そして、皆が口々に、自分の思いを投げかけた。
「ありがとう、皆。これからもよろしくお願いします」
そしてまた謝って、教壇を降りた。カナンは俺に向かって歩いてきた。
「戻ってきてくれて、よかったよ」
ようやく、目標を達成できた。最初は軽い気持ちだったけど、トラウマや、人間関係に関することは大変だということを身に染みて実感させられた。人生が、きっと一番難しい。
「ありがと。でも、ヒロは、後でね」
カナンは俺にこっそりと耳打ちをした。そしてカナンは、席に戻った。
楠先生がまた教壇に戻った。
「これで、今日のホームルームは終わりです。皆さん、今日の掃除当番は、二班と三班です」
ようやく、全ての問題が解決した。これで、もう彼女が学校に来ないなんてことは、たぶんない。
もちろん停電の日や怖くなった日は、たぶん俺たちのうち誰かが呼び出されるだろう。それでもいいし、皆で遊びにいけばいい。
皆で助け合っていけば、それでいい。人間は助けあうために、たぶん社会を作った。今回だって、一生懸命やってたら、皆が俺を助けてくれた。もし誰かが冷たいなら、その分暖かくなればいい。
そうすれば、たぶん今回みたいに、きっとうまくいく。
きっとこんな考えは甘いと笑われるかもしれない。だけど、手の届く範囲ぐらいは、そんな甘さが欲しい。理想は叶えられる範囲でなら、叶えることができる。
だから、そんな甘さを、守り続けていきたいんだ。
心地よい喧噪の中で、もう夕陽が絵画みたいに紅く輝いていた。




