23
また休日になった。
外に出て、駅に乗った。地下鉄の庄内通駅で降りた。地下鉄はつまらない。早く外に出たかった。延々と続く暗いトンネル。先の見えない暗闇。うら寂しく響くアナウンス。鬱屈とした閉鎖環境から、早く出たかった。
下を向いて歩き、無機質な薄汚れた灰色の階段を上った。
辺りを見回すと、駅から少し出た所のドーナツショップの方にカナンと、月波と、二階堂がいた。ドーナツショップでドーナツを買ってきたみたいで、ドーナツを口にくわえたままカナンと月波が手を振ってきた。
ココナッツのかけらがそこら中についている。また結城はバイトで来れなかったらしい。二階堂は、ドーナツとライオンが組み合わさったキャラのキーホルダーと、ドーナツの袋を持って立ち尽くしている。なぜか頭にドーナツライオンのカチューシャを付けさせられていた。
「ね、これからどうする?」、月波が言った。
「近くに大きな公園があるんだけど、そこに行かない?」
橋へ向かってずっと歩き続けた。急な坂の橋を渡り始めると、橋の下に、とても大きな川が見えなくなるぐらい遠くまで続いている。そこを渡りきって、しばらく歩いていると、川の向こう岸のあたりまで来た。
見下ろすと、緑が広がっていて、広々とした河川敷がある。フェンスがあって、野球やソフトのための場所みたいだ。
川の匂いがする。川はただ流れ続けるだけだ。遠い場所から、遠い世界へと続いている。海は世界中に繋がっている。
そこから自動車学校を越えて、公園の入り口から、河川敷まで降りた。
カナンがフェンスの所まで走っていって、鞄を下ろした。
鞄の中から、野球のグローブとボールが出てきた。それをカナンが身につけて、ピッチャーマウンドらしき場所に立った。
「あのね、昔、私野球とかソフトをやってたんだ」
はじめてカナンがグローブをつけている姿を見た。立っている地面の下を靴でならしている。ろくに盛り上がっていない、ただの平らな場所だ。マウンドとも呼べないような。
「野球をやってたのは、聞いたよ。ソフトをやってたのは始めて聞いた」
「私は小学校の時、クラブチームで野球のピッチャーをやってた。県でも滅茶苦茶強くて、ほとんど県で二位って言っても問題ないぐらい強かった。しかもピッチャーだよりのね。私は抑えの男には球速では負けてたけど、他の部分では私のがうまかったこともあったし、先発で投げてた。野手でも結構うまかったし、打撃もそこそこ出来たし、結構自信あったんだ。でも、やっぱりあんな球速は出せなかったのが、悔しかった。女ってだけで、軽く見られるのは辛かった」
カナンは、グローブの中にボールを何度か投げつけた。野球をやっていた人間なら、誰もがやる仕草だ。そして、グローブをぎゅっと握った。
「でも、認めたくなかったけど、男のピッチャーのが凄かったよ。そいつ、175センチはあったし。だから、なんでも出来る。ほとんど、小さい頃は身長に勝てる武器はないし。私はそいつの、肩の温存で沢山投げさせられてたから。自分がどれだけ投げても、肘を痛めても、しょせんはそいつの温存なんて、嫌な気分だよ。いい所は持ってかれるから、ずっとイライラしてた。だから、人に当たってた。そいつは中学で全日本代表のキャプテンになって、キューバで試合した。でも、もう肩を壊して、普通の外野手になってるんだ。まぁ、そんなもんだよ。神童なんて、すぐに普通の人に戻る。私も、今じゃ普通以下の人だよ。ふざけた話だよね。補欠でもないピッチャーなのにその上まだ不満で、人に当たるなんて。今思うと、信じられないし、申し訳ないよ」
ボールを空高くに投げて、落ちてきたのを取ろうとして失敗していた。やっぱり目が悪くなったことは凄く響いているらしい。いつもの体育の授業のできから考えると、目が悪くなる前は凄くうまかったんだろう、と思ってしまう。
「川中から聞いたよ。じゃあ、川中はどうだったんだ?」
「バッティングは私より上手かったよ。ちびだったのに当てるし飛ばすし。チームで二番目に打てたし、140km打ち返すし。だけど足とんでもなく遅いし、後から入ったから、いびられてた。万年補欠。それで気も弱かったから私も虐めてた。後輩にスライディングで膝蹴られて、さらに足遅くなってた。だけど、それでも明るい奴だったし。なにがあったかなんてわからないけど、それはお互い様で、互いにそこには触れないよ」
膝をやったというのは、そういうことか。あいつも、酷い目に遭ってたんだな。
たぶん、きっと互いになにかがあったのだろう。だけど、そんな事には触れもしない。
触れないことで、面倒を起こさない。そうすれば、ことも無し。社会は上手く回っていく。きっとそういう考えなんだろうな。
「じゃあ、中学の時は?」
「中学に上がってからは女子野球部なんてないし、ソフトボール部に入ったんだ。あったとしても、もう、あんな屈辱味わいたくなかった。もう、性別の差で、身長で負けるのなんて勘弁だし。女だから負けるなんて、それが一番悔しかった。努力じゃ追いつけない才能があるのが、一番気に入らなかった。それで、またピッチャーをやったんだけど、ある試合の日、私は投げた。落ちる変化球を投げようとしてたけど、回転がかからなくて思い切り打たれた」
カナンはしばらく時間をおいて、寂しくそびえ立つ鉄塔を見つめた。電線が空に架かっている。鳥の群れはどこかへ旅立っていった。夕焼けしか見えないぐらい、眩しいあかね色だ。
「凄い早さで、ボールが私に向かって飛んできた。間に合わなくて、思い切り食らったんだ。あんなの食らうなんて、って昔はそういう怪我してた人を笑ってたのに。狙って打ってたこともあるぐらいだったのに。そしたら、全てが真っ暗になってて、私は倒れた。目を開けてるはずなのに、片方はなにも見えなかったんだ。真っ暗。マウンドの上で、泣いて、暴れて、みっともないよね。ボールは私のちょっと後ろに落ちてた。ランナーはその間に帰ってきて、それでサヨナラ。試合も負けて、夏は終わり。マンガみたいに怪我しても、なんてかっこよくはいかないよ」
俺はなにも言えなかった。そんなことは経験したことが無かった。いったいどうやって、声を掛ければいい?
「馬鹿にしてたことが自分に返ってきたんだよ。昔は私、嫌な奴だったと思う。結局病院に行って、手術してなんとか見えるようにはなったけど、視力はがた落ち。コンタクトを外したら、なにも見えないよ。私はそれでスポーツはやめた。ボールを拾って投げなかったことで凄く責められた。もう心は折れちゃって、ずっとクラスの端っこにいた。それで、高校になってから、ばれたくないから、昔のチームメイトに口止めをして、こんなアニメのキャラの真似事をしてるだけ。痛いよね?重いよね?かっこ悪いよね・・・・・・」
どんな言葉をかけても、それが刃のような言葉になって、彼女を傷つけてしまいそうだった。人生のほとんどの時間をつぎ込んできたことがあって、それを不運によって一瞬で失ってしまうことがどんなにつらいことなのか、俺にはわからなかった。
「ちょっと待って。あなたって、コンタクトなの?カラーコンタクトじゃなくて?」、二階堂が口を挟んだ。
「オッドアイなんだ。後天的なね。酷い衝撃が与えられると、こういうこともあるの」
「綺麗な目だと、思うよ。金色の、カナンちゃんの宝物だと思う」、月波がゆっくりと話した。
「ありがと。でも、これで虐められたんだ。そんなにいいとは思えないよ。普通が一番なのに」
カナンが両手をゆっくりと上に上げ、思い切り左足を踏み込んで、右腕を凄い早さで振った。ボールが凄い勢いで飛んでいって、フェンスに白球が突き刺さった。右腕が左足の近くでぶらぶらしている。カナンは肘を押さえて、顔をしかめた。
そのスピードだけで、相当早いのがわかった。たぶん、うちの高校の野球部で投げてもいけるかもしれない。
「目が見えなくならなくたって、肘を痛めちゃってるから、あまり投げられないんだけどね。変化球をこっそりかけてたから、肘にきちゃった。男と張り合おうと思って、頑張りすぎたみたい。それに、もう高校生になったら男子には勝てないし。いくら今投げられても、女の中では早くても、上の方は140kmとか出すんだよ。小学校の時のクラブの仲間なんて、中学の時ですら、私と数人以外皆野球に飽きて、誰もやってない。きっと私たちが気に入らなかったんだろうね。私たちが威張ってたから、皆野球が嫌いになったんだと思う」
俺はずっと黙って聞いていた。
「私、何がしたかったんだろうね。なんにもわかんないよ」
片方の唇だけをつり上げた、自嘲的な微笑みを浮かべている。
「野球がやりたかったんだろ。投げたくて、打ちたかったんだろ」、俺はぼうっとしたように言った。
「私だって、本当はまだ続けたかったよ。でも、もうこんな目になっちゃったから、もう出来ない。右目はほとんど見えないから、打つのも捕るのもダメ。次は二度と見えないって。マウンドなんて、もう怖くて立てない。もう、一生関係のないことだけどね。別に、プロになるわけでもないし、出来なくなってもなーんにも関係ない。スポーツなんてね、ほとんどの人はやってもなんにもならないんだから。時間を取られて、たいして他のことも出来なくて。変に希望を持って、うちひしがれるよりは最初からやらない方がよっぽど幸せだよ。野球バカが惨めな人生になる確率は高いよ。凄くね。うちのチームの先輩は、暴走族になっちゃったし。そんなもんだよ、スポーツって」
「でも、体育の時間で相当なんでも出来てるじゃない。バレーをやっているのを見たことあるけど、バレー部よりうまいじゃない」
「本当だったらもっとうまいよ。でも、だからなに?そんなのなんにもならない」
カナンは雲一つ無い空を見上げた。
「今日は晴れだね。あの時とそっくり。両目で空を見られるときがまた来るなんて、あの時は思わなかった」
「でも、今は見えてる」
「だから?今だけだよ。結局、視力は下がってくし、このまま両方目が見えなくなっちゃうと思うと、怖い」
「考えすぎだよ。見えなくなることなんてない」、俺は言った。
「他人事だね、やっぱり」
カナンは顔をこちらに向けて、ほほえんだ。なにもない、空っぽのほほえみ。
「本当に見えなくなった時のことを考えたことがある?なにも見えないんだよ。だれかの顔も、この街も、この自然もなーんにもわからなくなるんだよ?そんなのいやだよ」
「片目だけだろ。そんなことは無いよ」、励ましの言葉のつもりで言った。だけど、そうじゃなかったみたいだ。
「だけ?やっぱり、他人事だよ」
カナンはふらふらと立ち上がって、近づいてきた。手には銀色の刃物が握られている。腰に両手で構えている。
「おい、カナン、嘘だろ?」
心拍数が跳ね上がった。カナンの目からハイライトが消えていて、顔に影が差している。暗くて、切なくて、悔しそうな、怒りに満ちた顔だった。全てが裏切られたみたいな、そんな顔だ。
「ふふ、私と一緒に死ぬ?」
二階堂が止めようとしたが、間に合わなかった。カナンが走ってきて、俺にぶつかった。俺は後ろに倒れて仰向けの俺に、カナンが乗っかっている。腹を刺されたと思ったけど、痛みは全くなかった。
カナンはその刃物の刃を指で縮めた。
「ジョークグッズだよ、これ。驚いた?でも、今のはちょっと頭に来ちゃった」
カナンはおもちゃを放り投げた。でも表情は全く変わっていない。俺の喉に両手が伸びてきて、握ってきた。
「なにが、だけ、なの。私はこんなに苦しんでるのに!考えたこともない人に言われたくないよ!ヒロならわかってくれると思ってたのに」
首が強く絞まる。苦しい。苦しい。
「や、め」、口から出た言葉はそれだけだった。視界が点滅しはじめた。
「死ぬのが怖い?なにも感じなくなることが!そういうことだよ!」、カナンが叫んだ。
「やめなさい!」、二階堂がカナンを後ろから引きずって、遠くへやった。
俺は咳き込んだ。馬鹿力のせいで、首が痛んだ。
「あなた、自分がなにをしようとしたかわかってるの!?」
「首を絞めただけでしょ」、凍りついたように、顔が固まっている。心が死んだみたいに。
「彼はあなたを助けようとしてるのよ!」
「うん。私はきっとおかしくなってるんだよね。私みたいなのは、二度と迷惑を掛けないようにするよ。さよなら。」
カナンは自転車に乗って、どこかへ消えていった。
「ちくしょう、なんでこうなるんだよ」
「人の痛みなんて、完全にはわかるわけがないのに。出来るのは隣に寄り添ってあげることだけよ」
二階堂がおもちゃを拾って、眺めていた。俺はまだ寝転んだままだった。
「俺、バカみたいだよな。こんな勝手に迷惑なことしてさ、カナンは我慢してたのに、俺が勝手に熱くなって、余分なことして。全部台無しにしてさ。なにやってるんだろうな」
「確かに、あなたは迷惑よね。彼女からしたら、秘密に踏み込んできて、それを暴いて、助けるためと言って、理解できない行動ばかりとってるものね。私もだけど」
「うるさい」
「でも、ここまでしたら、最後までやり遂げるべきだわ。しかも、彼女は人生にまで支障をきたしそうでよかれと思ってやったことが、こんなことになるなんて私も思わなかった。だから、せめてこの責任だけは取らないと」
「ああ。絶対、これだけでもなんとかしないと」、俺は土を払って、立ち上がった。
「でも、もしかすると迷惑かもしれないよ」、月波は少し落ち込んでいる。
「いいえ、そんなことないわ。私は、あなたに感謝してるもの」
雲一つない、青く澄んだ空だ。こんな日に、一人の少女が夢を失ったなんて考えられなかった。
「今日は雲一つ無いわね」
「確かに、今日は空が綺麗だ」
一人寂しくそびえ立つ鉄塔と電線の裏で、黄金色の夕陽が空を照らしていた。




