第八話 侵略の現実
「はあ……長湯しちゃったね……」
「はい、あまりに良いお湯で……人生で一番気持ちのいいお風呂でした……」
冷え切った体に染み渡る熱々のお湯。二人入っても余裕のある猫脚バスタブ。
もう、こころゆくまで堪能した。芯まで温もりきって、じわりと額に汗をかいてものんびりとお湯につかり、最後にもう一度シャワーを浴びてすっかりほかほかだ。指で差して蛇口を操作するというのも、すぐに慣れた。またあとで入ろう。
異世界のドライヤー……なのか、先ほどの白い少女――フウに教わった道具で互いに髪を乾かし合い、すっかり仲良しだ。修学旅行でもここまでテンションが上がらないし、親睦も深まらないと思う。
コードも電池入れもない、木製の棒の上部に開いた洞のような穴から温風が出てくるのはなんとも不思議だが、もう感嘆こそしても、いちいち驚きはしなくなった。
<お食事のご用意があります。こちらのレシピは獲得できていないため、あちらの料理になりますが>
「食べる食べる!! すごーい杖の中にごはんまであるの!?」
前言撤回しよう。異世界の不思議は、まだまだ驚くことだらけだ。
§
「ん……美味しい! はじめて食べるけど、すっごい美味しい!」
いつもの夕飯の時間より早いくらいだったが、色々なことがありすぎたからか、お腹はペコペコだった。
ダイニングテーブルにはスープとパン、サラダ、メインの肉と十分な食事が並んでおり、ハルカは夢中で次々と口に入れた。
「ほんのり甘みがあって……不思議なお味です。これは何のスープですか?」
<ドゥグと呼ばれる、あちらの穀物を主に使っております。他、根菜や葉物を少々。レシピが必要ですか?>
手乗りサイズの少女がふわふわと宙を漂う姿は実に幻想的だが、その口調はどこまでも平坦だ。
「いえ、ありがとうございます。また食べたいけれど、やっぱり異世界……でしたか、そこの作物を使っているのですね」
<こちらの植生についてはまだ情報が不足していますが、機があれば代用品を探しておきます>
「あっそういえば食糧ってどのくらいあるの?」
いくら魔法や不思議な道具が満載のファンタジー世界といえど、無限に食糧があるということはないだろう。
明日の朝食もないだなんて言われたらどうしよう。パンとっておくべきだったかな……。
<保存のきくものは、品にもよりますがおよそ半年分。生鮮食品は二ヶ月分あります。万全の保存魔法を用いれば一年分まで貯蔵量を増やすこともできますが、魔力消費量を考慮してこの量になりました>
「結構あるね」
<ヨウフォン様はこちらの世界に長期滞在なさるおつもりで、現地調達が安定するまでの期間を保たせる量を設定なさいました。……しかしこれは、お一人分の計算です>
「あ、じゃあ二人だと半分か……」
「一瞬、ここで生活できるかも、と思いましたが、そうはいかないのですね……」
となると食糧の確保は大切だ。
こういうときに食糧を得られる場所として、まず避難所が浮かんだが、リンユオの話を思えばあまり期待はできないだろう。お金もないし、どうしたものか……。
「……あ、そういえばヨウフォンさんは……いつ、帰ってくるの?」
フウははじめて即答せず、一拍の間を置いてから言葉を発した。
<ヨウフォン様はこの杖の所有権を完全にハルカ様へ移譲なさいました。ここへはもう戻りません>
「でも、こんなに便利な杖……ないと不便なんじゃないかな。飛べるみたいだし、あとから追いついてきたり……」
<ハルカ様。ご察しの通り、ヨウフォン様が現在生存しておられる可能性は極めて低いです。あの方は死ぬ覚悟であの場に残りました>
ぐっと息を飲んだ。
ご察しの通りってなんだ。わたしはそんなこと、全然……。
「……ヨウフォンさん、強かったよ、あんなたくさんの魔物を一発で」
<最後に皆さまの前に現れた上位魔人は、一般の魔物と比較できる存在ではありません。たとえ魔物千匹を一太刀に切り伏せる猛者あっても、上位魔人の前では基本、無力に等しいとご理解ください。その上位魔人は私が知る範囲では百人以上います。こちらに来ている数は不明ですが>
だって、そんな……人が死んだの? ニュース越しじゃない、実際にさっきまで会っていた人が?
自衛隊も敵わなかったという魔物。その魔物の大群を一瞬で焼き尽くしたヨウフォン。そのヨウフォンより圧倒的に強いという、上位魔人と呼ばれる存在。
おかしい。そんなの、バランスが狂っている。
そんな脅威がなんの前触れもなく現れていいわけがない。
<日本はここ数十年、領土内での戦争とは無縁だったと聞いています。混乱はされるでしょう。ですが可能な限り早く現実を受け入れてください>
フウの機械的な声が、今はひどく酷薄なものに聞こえた。
<あなた方の国は魔族によって侵略されました。今はすでに戦時中です。そしてこの戦争は早々に終結するでしょう。この国の敗北という形で>
違う。残酷なのはこの状況だ。
戦争どころか殴り合いのケンカだってしたことがないのに、突然そんなこと言われたって、理解できない。
しかし同時に、昼間自分の目でみた光景が、肌で体験した戦闘が、現実だと言っている。
いつの間にか擦りむいていた膝の絆創膏をそっと撫でた。炎症を起こしているのか少し痛い。
<この飛杖船にはヨウフォン様がご用意された魔法の教科書も数多くあります。――最初の一匹は、すでに倒されましたね。その一匹が、一歩が、無と有を分けます>
フウはリンユオと同じことを口にした。
<あなた方はすでに、戦う力を手にしています>
戦う力――。
そう、そうだ。たしかに殺った。黒い獅子と、巨大な猪と、三つ目の怪鳥を。
<一匹が殺せたなら、百匹も殺せます。ですから魔人も――>
「ひとり倒せたら、百人も倒せる? でも……」
<はい。ヨウフォン様含め、あちらのレジスタンスの誰にも不可能でした。――けれど、あなた方なら>
抑揚の少ない平坦な口調は変わらない。しかしどこか熱のこもった声で、フウは言った。
<ヨウフォン様は、こちらの世界の人間に可能性を見出していました。あちらで成し得なかった魔族への勝利が、こちらでなら、出来るかもしれないと――。だからこそヨウフォン様はあなた方を助けました>
わたしたちが、そんな化け物を?
一体なんの冗談だ。わたしたちは、この世界の人間は、そんな力など持っていない。
<ハルカ様、ヨシノさん。選択肢はそう多くはありません。戦うか戦わないか。喰うか喰われるか。……生きるか死ぬか。お選びください>
――これまでの日常はもう戻らないのだと、言われた気がした。