第70話「前に進みだす二人」
「き、雲母……?」
思わぬ登場人物に、俺は驚きを隠せなかった。
俺、あいつに家の住所教えたっけ……?
いや、咲姫の事があるんだから、教えていないはずだ。
一体何であいつがここに……。
とりあえず雲母を無視するわけにはいかないため、俺は靴を履いて玄関のドアを開ける。
すると、思わず見とれそうになる様な素敵な笑顔を浮かべた、雲母が立っていた。
何故だろう……?
この笑顔を見ると、凄く嫌な予感がするんだが……?
俺は思わずドアを閉めようかと思ったが、後が怖い為未だに無言の笑顔で俺を見つめる雲母に声を掛ける。
「よく……俺の家がわかったな……?」
「だって、海斗の事だもん。私は海斗の事なら、なんだって知ってるよ?」
俺は雲母のその言葉に、更に嫌な予感が増す。
ただ、その嫌な予感が何なのかがハッキリとはわからない。
「なんでもは流石に言いすぎだろ?」
「ううん、わかるよ? 例えばね――桃井と家族になったんだって事とか」
今まで笑顔だった雲母の顔が、『例えばね――』を言った後に、真顔になった。
俺はこの瞬間、たまに雪女並みの冷気を発する咲姫や、ニコニコ笑顔に『ゴゴゴゴゴ』の効果音が聞こえてきそうなオーラを放つ桜ちゃんを相手にしているのと同じ恐怖を感じた。
「か、隠してたのは悪いと思うけど……何もそんなに怒らなくてもいいだろ……?」
俺は冷や汗を掻きながらも、なんとか言葉を絞り出す。
「怒る? やだな~海斗、私が海斗に怒るわけないじゃん」
雲母はそう言って笑顔を浮かべるが――目が笑っていない。
これは完全に怒ってる奴だ。
「あれ? やっぱり雲母先輩だ! こんな時間にどうしたの?」
俺達の話し声が聞こえたのか、桜ちゃんがリビングから顔を出した。
「やっほ~桜! ねぇ、ちょっと上がらせてもらってもいい?」
「あ、うん!」
この状況を理解していない桜ちゃんが、あっさりと雲母を家に上げる事を了承してしまう。
さ、桜ちゃん?
雲母が今めっちゃ怒りを内に秘めてる事に気付いて無いの……?
妹によって退路を断たれた俺は、何とも言えない気持ちで可愛い妹を見る。
そんな俺の顔を見て、桜ちゃんが不思議そうに首を傾げ、その顔が困った様な表情に変わる。
もしかしたら、俺の思いが通じたのかもしれない。
ただ、もう雲母は靴を脱いで上がろうとしている為、手遅れだ。
「私、海斗の部屋に行きたいな?」
雲母はそう言って、笑顔で圧力を掛けてくる。
「お、おう……」
俺は雲母の怒りをなるべく鎮めれるように、要求をすんなり受け入れた。
そのまま俺と雲母は二人っきりで俺の部屋へと向かう。
ついて来ようとした桜ちゃんに、雲母が俺と二人だけで話をさせて欲しいと言ったからだ。
うん、そうだろうな……。
だってこいつ、俺をシバキに来たんだもん……。
そして部屋に入った瞬間――雲母によってベッドに押し倒される。
いきなりの出来事に俺は体勢を保てないまま、ベッドに仰向けに倒れこみ、雲母が俺の体へと乗ってきた。
「お、おい! いきなり何をするつもりだ!?」
「う~ん? 海斗にどういう事なのか説明してもらおうと思っただけだよ? ただ、聞くのは海斗の体にだけどね?」
雲母はそう言うと、俺の服へと手をかける。
「ば、馬鹿! 何してんだよ!」
「ふふ――えい!」
俺がこのまま服をめくられるんじゃないかと思った瞬間――雲母にデコピンをされた。
「いってぇ――!」
デコピンをされた俺はあまりの痛さに、おでこを右手で抑える。
そんな俺の姿を見て、雲母が大笑いした。
「お、お前……本当いきなりなんなんだよ!」
「ハハハ――うん、これで隠してたこと許してあげる。それにね、本当は怒ってたわけじゃないの。ただ、隠されてたことが嫌だったから仕返ししようと思っただけで、海斗と桃井が家族になったって知って色々と腑に落ちたんだよね~」
雲母は目の端に涙を溜めながらそう言うと、俺の顔をジーっと見つめだした。
怒っていないのならよかったが――なんで俺の顔をジーっと見つめてくてるんだ?
もうさっさと体から降りて欲しいんだが……。
「どうしよう……。降りようと思ったんだけど、降りるのが凄く勿体ない気が――」
「さっさと降りろ!」
「きゃっ!」
なんだか頬を赤く染めて目を蕩け出した雲母に危険を感じた俺は、雲母が乗ったまま体を無理矢理起こし、雲母を振り落とした。
「酷い! 女の子にする事じゃない!」
当然落とされた雲母はお冠だ。
「いや、悪い。つい咄嗟にしてしまった」
俺は雲母にそう謝ると、手を差し出して雲母を引き起こす。
俺が謝ると雲母の機嫌が直り、彼女は立てって俺の部屋を見渡し始めた。
「男子なのに凄く綺麗に片づけてるんだね」
雲母は俺の部屋の状況を見て、意外そうに呟いた。
まぁ元々汚す質ではないが、最近ではずっと咲姫が部屋に来るのだ。
当然、部屋は前以上に綺麗にすることを心がけている。
「普通だろ、それくらい」
「そうかな? まぁ、桜が遊びに来たりするかもしれないしね――ねぇ、この本読んでもいい?」
雲母はそう言うと、俺の本棚からラノベを取り出した。
「え、読むってここで?」
「うん」
「今、何時だと……?」
「20時半前くらいだね」
いや、知ってるけどな。
俺が言いたいのはそうじゃなくて、友達の家に居る時間としては、遅い時間だという事に気付いてないのかって意味だ。
「お前、今日泊って行くつもりなのか?」
「え、いいの!?」
俺が雲母の真意をはかりかね、泊る気で来ているのかと聞く、雲母は嬉しそうに尋ね返してきた。
どうやら、泊る気ではなかったようだ。
「駄目に決まってるだろ! 今は父さん達もいないんだし!」
「あ、そういえば会わなかったね? 桃井が居ないのは知ってたからきたんだけど――ん、ちょっと待って! それって今日は桜と二人っきりって事!?」
咲姫が居ない事は知ってて来たのか。
まぁ、そりゃあそうだよな。
こいつは馬鹿じゃない。
だから、咲姫と鉢合わせする様な真似はしないだろう。
もし鉢合わせすれば、咲姫に嫌な事を思い出させてしまうからな。
ただ、それよりも桜ちゃんと二人っきりって事に反応したようだ。
「あぁ、そうなるな」
「私も泊まる! 海斗が駄目って言っても絶対泊まる!」
俺が桜ちゃんと二人っきりだという事を肯定すると、雲母が猛烈に駄々をこね始めた。
「いや、駄目だからな!? 女の子を両親が居ない間に泊められる訳ないだろ!」
「だって、このままじゃあ、桜と海斗が二人っきりじゃん! 桜が襲われちゃうじゃん!」
「おい! 桜ちゃんは妹だ! 襲う訳ないだろ!」
いきなりとんでもない事を言い出した雲母に、俺はそう怒鳴る。
確かに異性と二人っきりの夜は不味いだろうが、相手はあの桜ちゃんだ。
ロリっ子に手を出すほど、俺は落ちぶれていない。
「わからないじゃん! だって、桜だよ!? どうせ無邪気にくっついてきたりするもん! そしたら、海斗があの大きい胸に欲情しないとは限らないもん!」
俺は思わず雲母の言葉に黙り込む。
雲母が言った言葉に心当たりがありすぎて、反論の言葉が出てこなかったのだ。
「あ、黙った! ほら、やっぱり自覚あるんじゃん!」
「だ、大丈夫だ! 絶対に手を出さない!」
俺がそう反論すると、雲母がジト目で俺の事を見てくる。
うん、一切信用されてないな!
――そのまま言い合いを続けて疲れた俺達は、一旦休憩する事にする。
ただ、休憩すると言ったものの、雲母は先程読ませてほしいと言ったラノベを読み始めてしまった。
どうやら居据わる気は満々の様だ。
ちなみに今俺達が座ってるのは、俺はいつも自分が座ってるパソコンの前で、雲母は咲姫の特等席になっている場所に座った。
まぁ今日は咲姫はいないし、何も問題は無いのだが――いつも咲姫が座っているとこに雲母が座ってると、なんだか違和感を感じる。
それに、どうして雲母はラノベを読みたがったのだろうか?
「なぁ、お前ってラノベ読むの?」
俺がそう尋ねると、雲母が笑顔で俺の方を見た。
「うん、最近は結構読むよ? だって海斗が好きなもんなんだから、好きな人の好きな物って知っておきたいでしょ?」
そんな事を笑顔で言う雲母に、俺は思わず顔を背ける。
なんでこいつって、こんな直球なの!?
しかも、そんな素敵な笑顔でそんな事言われたら、嬉しい気持ちと照れくさい気持ちが凄いんだけど!?
多分今の俺の顔は、凄く真っ赤になってるだろう。
そして、やっぱり雲母は良い女だよなとも思った。
もしアリアに嵌められる前に雲母と出会えていたら、俺達はどうなってたのだろう?
いや、でもそしたら、雲母は俺なんかに興味を持たなかっただろうな。
そもそも、今でも雲母が俺に興味を示しているのが謎でしかない。
そして、直球の言葉ばかり言われるせいで、女子耐久があまりない俺としては、正面から受け止められない。
なんだか最近、本当に精神攻撃ばかり喰らってる気がする……。
コンコンコン――。
少し和やかな雰囲気になっていると、ドアがノックされた。
桜ちゃんが部屋に来たのだろう。
あれから時間が経ってるし、そろそろ来ても大丈夫だと思ったんじゃないだろうか。
桜ちゃんは最近雲母にも懐いてるし、話がしたいのだろう。
俺の妹は甘えん坊で可愛いな――と思いながら、俺はドアを開けた。
すると――
「えへへ、こんばんは、海君……」
――と、ここに居るはずが無い、咲姫が目の前に居たのだった。
2
五分前――。
ガチャガチャガチャ――。
家の前に車が停まる音が聞こえたと思ったら、いきなり玄関のドアがガチャガチャいう音が聞こえてきたの。
お兄ちゃんは今二階に居るし、雲母先輩も同じ。
そして二人が二階から降りてきた音はしなかった。
という事は――ど、どろぼうかな……?
ど、どうしよう……?
お兄ちゃん二階だし、桜一人っきりなのに……。
や、やだ……。
凄く怖いよぉ……。
桜は何処かに隠れられないかキョロキョロと周りを見回すけど、悲しい事に隠れれる様な場所はなかった。
そうしてる間にドアが開いた音が聞こえてくる。
そして家に上がってきた人の足音は、桜のいるリビングに向けて歩いて来てるみたいだった。
な、なんでぇ……?
こっちに来たらやだ……!
桜は恐怖から泣きそうになってしまうけど、それ以外には何も出来なかった。
あまりの怖さに、足がすくんじゃって逃げる事も出来ない。
そもそも、お兄ちゃんを置いて逃げたりなんて出来ない。
どうしよう――桜がそう悩んでると、とうとうリビングのドアが開いちゃった。
そして現れたのは――
「ただいま、桜」
――お姉ちゃんだった。
「お姉ちゃん――!」
家に入ってきたのがお姉ちゃんだった事に安堵した桜は、恐怖を振り払う様にお姉ちゃんに抱き着く。
「さ、桜!? どうしたの!?」
桜に抱き着かれたお姉ちゃんは、凄く戸惑ってた。
でも、桜は今安堵から泣きそうになってたから、顔を見せない様にお姉ちゃんの体に顔を押し付ける。
「今日、お泊りじゃなかったの? それに、家の前に車が停まった音が聞こえたんだけど……?」
桜は顔をお姉ちゃんに押し付けたまま、そう尋ねた。
「あぁ……実はね、私とした事が忘れ物をしてしまったの。だから、家に取りに戻ってきたって訳。ただね――一人で帰ろうと思ってたら、如月先生が車を出してくれたのよ」
お姉ちゃんの顔は見えないから本当の事を言ってるのかどうかわからないけど、桜の大好きなお姉ちゃんが桜の嫌いな嘘をつくわけがないから、多分本当なんだと思う。
でも、お姉ちゃんが忘れ物をするなんて、珍しい事もあるんだね……。
「そう言えば、海君の姿が見えないようだけど?」
「あ、お兄ちゃんなら自分の部屋にいるよ?」
「そうなのね。ごめんなさい、桜。私は忘れ物をとってすぐに戻らないといけないから」
お姉ちゃんはそう言うと、桜の体をゆっくりと両手で押して離しちゃった。
そして、お姉ちゃんはすぐに二階に向かう。
お兄ちゃん達が二階に上がってから結構な時間が経ってたから、雲母先輩と話がしたかった桜もお姉ちゃんの後について、二階にあがって――どうしてかわからないけど、お姉ちゃんは自分の部屋に行く前に、お兄ちゃんの部屋へと寄っちゃった。
すぐにお兄ちゃんは出てきたんだけど――凄く驚いた様な表情をしていた。
多分、お姉ちゃんが泊まると思ってたんだろうけど――その表情が凄く焦ったような表情に変わっちゃった。
さっき雲母先輩が家に来た時以上の焦った顔をしてるけど、なんでだろう……?
雲母先輩が来た時焦ってる顔をしてたのも、おかしいなぁ……って思ったんだけど……。
だって、雲母先輩別に怒ってなかったし、お兄ちゃんと話がしたいって感じだったもん。
なのにお兄ちゃんは凄く困った感情を浮かべてた。
そして今は、それ以上の困った感情を浮かべてる。
雲母先輩をお部屋に入れてる事を知られたくなかったのかな?
お姉ちゃんってこう見えて凄く嫉妬深いし……。
この前も、金髪のお姉さんがお兄ちゃんの部屋に居る事を知ったら、凄く怖くなっちゃったし……。
……あの時お兄ちゃん、膝枕してもらってたんだよね……?
お兄ちゃん膝枕好きなのかな?
桜もしてあげたら喜んでくれるかな?
でも、桜はしてあげるより、お兄ちゃんにしてもらいたいなぁ……。
桜がそんな事を思ってる間に、お兄ちゃんがお姉ちゃんに声を掛けた。
「なんで……居るんだ……?」
「えっとね、忘れ物をしちゃったの! それで海君とも少し話をしたいなぁ――って……え……?」
笑顔でお兄ちゃんの質問に答えていたお姉ちゃんの表情が、お兄ちゃんの後ろを見た瞬間、戸惑った様な表情に変わる。
そして、その顔は段々と――汚い色に変わっていく。
それは憎しみの感情や、嫌いって感情を表す時の色。
桜の、一番嫌いな色だった。
「な、なんであなたがここに……?」
お姉ちゃんは戸惑った様な声で、お兄ちゃんの後ろの人――雲母先輩に話しかけた。
「あ……その……」
ここからだと雲母先輩の姿は見えないけど、声から戸惑った様子だって事はわかる。
「咲姫、これはだな――」
「ごめん海君、ちょっとどいて」
お兄ちゃんはお姉ちゃんに何か言おうとしたけど、お姉ちゃんがお兄ちゃんを押し退けた。
そのお姉ちゃんの雰囲気は、凄く怖い。
そして、汚い。
え?
え?
なんでお姉ちゃん、こんな感情を出してるの……?
こんなのいつものお姉ちゃんじゃないよ……。
それに、なんで雲母先輩に怒りをあらわにしてるの?
「あなた一体どういうつもり! もう終わった事だから学校とかでは知らないふりしてたけど、家にまであがってくるなんて! あなたに罪悪感ってのはないの!」
部屋の中に入ったお姉ちゃんは、そんな怒鳴り声をあげた。
お姉ちゃんのこんな声、初めて聴く。
桜はすぐに中の状況がわかるように、部屋へと入る。
そこには凄く怒った表情のお姉ちゃんと、そのお姉ちゃんを抑える様にしているお兄ちゃん――そして、辛そうな表情で俯く雲母先輩が居た。
「何か言いなさいよ! あなた自分がした事なんて、なんとも思ってないんでしょ!」
「お、落ち着けって咲姫!」
「落ち着いてられないよ! 海君も海君だよ! 私がこの人にどんな目にあわされたか知ってるくせに、なんで家にまであげてるの!? 私の気持ちも考えてよ!」
お姉ちゃんはそう言って、お兄ちゃんにも怒鳴り始めた。
その目からは涙が流れてる。
ど、どうしよう……?
どうしたらいいの……?
桜はこの状況をどうしたらいいのかわからず、おどおどとしてしまう。
すると――
「はいは~い、そこまで~」
――と、呑気な声で桜より少しだけ大きい女性が仲裁に入った。
「如月先生……?」
その女性を見たお兄ちゃんが、戸惑ったような声を出した。
あ、そうだ……確か、桜の学園の家庭科の先生だ。
それに、お姉ちゃんが入ってる生徒会の顧問の先生でもあったと思う。
「ごめんね、海斗ちゃん。桃井さんの怒鳴り声が聞こえてきたから、勝手にあがちゃった。それで、この状況はどうしたの? 先生にわかる様に説明してくれるかな?」
如月先生がそう言うと、お兄ちゃん達三人が困ったような表情をする。
話す訳にはいかないって思ってるみたい。
「うん、何か良くない事があったんだね。とりあえず、話してくれないかな? 大丈夫、何があったとしても、処罰をしたりしないから」
如月先生は優しそうな笑顔を浮かべて、顔の前で両手を合わせた。
お兄ちゃんが最初にお姉ちゃんの顔を見て、その後に雲母先輩の顔を見る。
そして少しだけ考えて――ゆっくりと、これまでの出来事を話してくれた。
それは――聞くに堪えない内容だった。
優しい雲母先輩が、お姉ちゃんに言葉にも表したくないような酷い事をしていたという内容だった。
そして、お兄ちゃんが雲母先輩に課した処分――それに、雲母先輩がそんな事をした訳を話してくれた。
後半の二つはお姉ちゃんも初耳だったみたいで、驚いた表情をしていた。
でも、怒りの感情は全く消えてない。
それもそうだと思う。
だって雲母先輩がした事は、桜でも許せない。
桜の大好きなお姉ちゃんに、そんな事してたなんて本当に許せないと思った。
だけど――雲母先輩が優しい先輩だって事はもう知っちゃってるし、何より桜の目が雲母先輩の事を良い人と判断してた。
多分雲母先輩がお姉ちゃんに酷い事をしたのは、桜が雲母先輩を初めて見て、気持ち悪いと思った頃なんだと思う。
あれから少しして、雲母先輩の感情は変わってて、悪い人から良い人へと判定が変わってたもん。
だから桜は、どうしたらいいのかわからない……。
許せないって気持ちがあるのに、雲母先輩を嫌いになれない。
きっとお兄ちゃんが抱えてる感情も、桜と同じなんだと思う。
「なるほどね――とんでもない事をしでかしてたわけね、西条さん」
話しを全て聞いた如月先生が、そう言って苦笑いで雲母先輩の事を見る。
ただ、この人は驚いてはいるし、怒ってるのもわかるけど――その怒りを完全に心の中で抑え込んでいるのが桜にはわかった。
多分お兄ちゃんやお姉ちゃんは、今回の事を如月先生が軽く考えてて、ヘラヘラと笑ってるんだと思ってる気がする。
でも、そうじゃない。
この先生はこの場を綺麗に治める為に、自分の感情を完全にコントロールしてるんだ。
「とりあえず、桃井さんはどうしたい?」
如月先生はお姉ちゃんの方を見て、そう尋ねた。
「どうしたいか、ですか……?」
「そうだよ? 今ここで絶対にしてはいけないのは、桃井さんが怒りの気持ちを隠したり誤魔化して、内に溜め込む事なの。それはこの場を治める為にはいいかもしれないけど、溜め込んだ分、後々でもっと酷い不満の爆発させ方をする危険があるから、今ここで不満を全て発散した方がいいよ? だから、西条さんに怒りたいなら怒ればいい」
如月先生は笑顔でそう言った。
こんな事を笑顔で言うなんて、凄いと思う。
怒りたいなら怒ればいいってのは、桜達が普段から教えられてる、『我慢をしろ、我慢する事が出来る人間が偉いんだ』って言葉とは正反対だから。
ただ、お兄ちゃんは怪訝な表情をしている。
多分、ここでお姉ちゃんに不満を爆発させるのは危険だと思ってるんだと思う。
お姉ちゃんの歯止めが利かない恐れがあるから。
でも、多分その心配は無いと思う。
さっきは雲母先輩がいきなり居たから自分を抑えられずにお姉ちゃんは怒鳴ちゃったけど、お姉ちゃんの本当の性格は凄く優しいから、怒ってはいても少し冷静になってるお姉ちゃんは、もうさっきみたいに怒鳴ったりしないと思う。
それをこの先生は理解してるの。
どうして桜がそんな事をわかるのかと言うとね、先生の表情を見てて伝わってくるからなの。
そしてだからこそ、先生はお姉ちゃんに怒りたいなら怒ればいいって言ったんだと思う。
このままだとお姉ちゃんは多分、怒りを凄く秘めたまま、この場を去ろうとする。
それをお兄ちゃんが望んでる事に、お姉ちゃんは気付いてるから。
さっきみたいに我を忘れてたお姉ちゃんならともかく、今のお姉ちゃんならお兄ちゃんが望むようにすると思う。
だって、お兄ちゃんの事が大好きで、嫌われたくないから。
お姉ちゃんと雲母先輩の両方を傷つけたくないお兄ちゃんは、そのお姉ちゃんの事を止めないと思う。
ううん、多分お兄ちゃんの事だから、お姉ちゃんの本当の気持ちなんか気づかずに、『大人だ。立派だ』と、思う気がする。
でもそれは、如月先生が言った通り、後で凄い爆発をすると思った。
だから如月先生はここで、出来る限りお姉ちゃんのガス抜きをしようと思ってるんだと思う。
お兄ちゃんが居る所でお姉ちゃんに不満を吐き出させれば、理性を保たせたまま、怒りの感情を飛ばせるから。
桜がそう思ってると、やっぱりお姉ちゃんはお兄ちゃんの顔をチラチラと見ていた。
お兄ちゃんの事を気に掛けてるの。
でもこのままだと、多分お兄ちゃんが止めちゃうから、桜が後押ししてあげないと駄目だよね。
「お姉ちゃん、如月先生の言う通り、言いたい事を言った方がいいよ? 怒りを溜め込んだ方が、皆の為にならないと思うの」
桜がそう言うと、みんなの驚いた視線が桜に集まる。
うん、桜はいつもこんな事言わないもんね。
だって、誰にも喧嘩をしてほしくないもん。
でも、お姉ちゃんもお兄ちゃんも、それに――雲母先輩の事も好きだから、ここでお姉ちゃんが怒った方が良いのなら、桜は後押しするよ。
これくらいしか、桜に出来る事はないもん。
それから――お姉ちゃんは、ポツポツと自分がされた事に対する不満を漏らし始めた。
雲母先輩はその事に対して言い訳をするわけでもなく、全て正面から受け止めてた。
そしてある程度文句を言い終わったのか、お姉ちゃんが一息つくと、こういう言葉を口にした。
「私は……あなたを許さない」
お姉ちゃんの言葉を聞いて、お兄ちゃんは天を仰ぐように首を上げ、目を瞑って考え込み始めた。
雲母先輩は仕方ないといった感じで、お姉ちゃんの言葉を受け止めている。
きっと先輩はお兄ちゃんとした約束通り、一生を使ってお姉ちゃんに罪滅ぼしをしていくつもりなんだと思う。
でも、今のお姉ちゃんはもう、汚い色を出してない。
いつものお姉ちゃんらしい綺麗な色を出していた。
「だけど――友達なら、許せるかもしれない。だから、私に一生を使って償っていくって言うのなら、私の友達になれる様に頑張ってみて。まぁでも、簡単に友達としては認めてあげないけどね」
お姉ちゃんは雲母先輩にそう言った。
その顔は笑顔じゃなく、真面目な顔だった。
お姉ちゃんが雲母先輩の事を許してないというのがよくわかる。
でも、もうさっきみたいには憎んでいないみたいだった。
お姉ちゃんの気持ちの中で、折り合いがついたんだと思う。
それにお姉ちゃんは嘘もついていない。
本当に友達なら許せるかもしれないと思ってるみたいだった。
だから後は、雲母先輩次第なの。
「本当に……それでいいの……?」
雲母先輩は絞り出す様な声で、お姉ちゃんに尋ねた。
「何か勘違いしてないかしら? 私は許せるかもしれないって言っただけで、許すとは言ってないし、そもそもさっきも言ったけど、そう簡単に友達になれると思わないで」
お姉ちゃんは素っ気なくそう言ったけど、その言葉に怒りの気持ちが乗ってない。
もう本当に切り替える事が出来てるんだ。
「うん……! うん……! わかった! 私、桃井の友達になれる様に頑張る!」
雲母先輩は涙を我慢するようにしながら、そう答えた。
お姉ちゃんは何とも言えない表情をしてるけど、多分そのうちこの二人なら友達になれるんじゃないかな――って桜は思った。
でも、それまではお姉ちゃんが許す訳じゃないから、お兄ちゃんの『一生償い続けろ』という言葉は有効なんだろうね……。
早く二人が仲良くなればいいなぁ。
「よかったよかった!」
桜がお姉ちゃん達が早く仲良くなれるように祈ってると、そんなお姉ちゃん達を見て、如月先生が嬉しそうに両手を叩いた。
お兄ちゃんも安堵していて、そのまま如月先生へと近寄る。
「よく、あんなアドバイスが出来ましたね?」
お兄ちゃんは如月先生がこんな風に円満に解決出来ると思ってなかったみたいで、不思議そうな表情で尋ねた。
「昔ね、私が高校で虐められて周りを憎んでる時に、先生がそう教えてくれたの」
「え……いじめられてたんですか……?」
「私ってね、昔からお嬢様学園に憧れてて、その学園に特待生として入ったのはいいんだけど――一般人の私が居る事が、他の子達には面白くなかったみたい。友達は三人だけ居たんだけど、その子達にわからない様に虐められてて、その子達が気付いて止めてくれた時には、もう私は皆を恨んでた。そんな時に一人の先生がずっと私に付き添ってくれたの。まぁ――先生って言っても、シスターと兼任の先生だったんだけどね。その先生はずっと私の愚痴を聞いてくれて、次第に私の心は晴れていったの。だからね、その時私は思ったんだ。私もこの先生みたいに、悩んだりしている生徒を導いてあげたい――て」
如月先生は懐かしむようにお兄ちゃんにそう言った。
お兄ちゃんは驚いた表情をした後、見直したって感じで先生の事を見てた。
お兄ちゃんがこの先生の事をどんな風に思ってたのか聞いてみたいって思ったけど、なんだか雰囲気を壊しちゃいそうだったから、桜は聞くのを我慢した。
そしてお姉ちゃん達が和解――とまではいってないのかもしれないけど、少なくとも前向きになれた後お姉ちゃんと如月先生は帰ろうとしたんだけど……。
お姉ちゃん達が外に出てみると、如月先生の車は駐車違反でお巡りさんにシールを貼られていたのでした――。
「うそでしょぉおおおおおおおおお!?」
―と、如月先生の断末魔って言うのかな?
それが、夜の道に響き渡ったのだった――。
3
「うぅ……これも全て海斗ちゃんのせいだぁ……」
「いえ、先生。神崎君のせいじゃなく、忘れ物をしてしまった私のせいなので、神崎君に怒らないで下さい」
仕事が遅くなった私は、マネージャーの指示でホテルに泊まる事にして受付をしてたんだけど――二人の綺麗な女性が話してる、気になる言葉が私の耳に入ってきた。
海斗ちゃん……?
神崎君……?
「ううん、全て海斗ちゃんが悪い! だって、何かあったら男がすべて悪いってのが相場だもん!」
「いえ、それは男女の喧嘩だった場合じゃないでしょうか……? 神崎君は、今回被害者な様なものですし……」
や、やっぱり――!
「あ、あの――! 少し宜しいでしょうか!?」
――探していた人が遂に見付かったかもしれないと思った私は、緊張を隠せないまま、皆から鈴を転がす様な綺麗な声と言われてる声を絞り出して、初対面の方に話しかけるのだった――。