第228話「やり直そう」
「――本当に、カイがあの子なの……?」
アリスさんの言葉を聞いて黙り込んでいたアリアは、五分ほど経ってからゆっくりと口を開いた。
おそらく自分の中で気持ちの整理をしていたのだろう。
今は暴れる事もなくおとなしくしている。
アリスさんが優しく接し続けたおかげだろうか。
「うん、そうだよ。今まで隠しててごめんね」
アリスさんが困ったような笑みを浮かべて謝ると、アリアは全身の力が抜けたのかガクッと前屈みになった。
「お、おい!」
「ごめんなさい、ちょっと今力入らない……」
俺が慌てて抱き止めると、アリアは弱々しい口ぶりで謝ってきた。
あのアリアが俺に謝ったなど信じられない出来事だが、本当に体に力が入らなくなっているようだ。
安心して気が抜けた、そう捉えていいのだろう。
どうやらアリアは俺が自殺を隠れ蓑にしたせいで、随分と思い詰めていたみたいだ。
それで俺が生きていたと知ったから緊張が解けた、そんな感じか。
あれほど怒り狂っていたアリアがこんなふうになったのは意外だが、俺も自分のせいで誰かが死んでしまったと思っていて、その人が生きていたら多分同じような反応を示しただろう。
だからアリアがこうなるのも仕方ないのかもしれない。
――そして、これがアリスさんの狙いだった。
元々アリアが他者を陥れるようになったのと、中学時代の俺が自殺したという出来事に関連性はない。
それでもアリスさんがこの話をしたのは、アリアを蝕んでいた呪縛を一つ解く事により、アリアの心に隙を作るためだ。
現に今アリアは俺が生きていた事に安心し、緊張が解けて気持ちが緩んでしまっている。
俺に抱き締められているにもかかわらず、抵抗すらしないのがその証拠だ。
今なら話をちゃんと聞いてくれるだろう。
アリスさんが若干物言いたげに俺の事を見ているのは気になるが、これは不可抗力だから仕方ないはずだ。
俺が手を放してしまうとアリアはそのまま前かがみに倒れてしまう。
……いや、多分へたりこむか、自分の足で立ちそうな気はするのだが、アリアが俺の手を抱いてしまっているからどっちみち放しようがない。
多分今のアリアは頭が疲労と安堵から頭が回っていないのだろう。
だから倒れる際に支えた俺の腕を反射的に抱いてしまい、俺の腕を抱いているという事に気が回っていないのだ。
そうじゃないとアリアが俺の腕を抱き込むとか絶対にありえないからな。
「アリア、裏切るような真似をしてごめん。だけど信じてほしい。アリスはアリアの敵じゃない。アリアに真っ当に生きてほしかった、ただそれだけなんだよ」
アリアの様子を見て頃合いだと判断したのか、アリスさんは俯いてしまったアリアの顔を覗き込むようにして自分の意志を伝えた。
それによって若干アリアの体に力がこもったのがわかる。
裏切り――その言葉を聞けばアリアの怒りが再発してもおかしくなかった。
――だけど、どうやらもう心配はいらないようだ。
「そんなの……最初からわかってるわよ……」
小さく呟くように発せられた言葉。
しかしその言葉からは、アリスさんの気持ちを理解している事が窺えた。
「私が間違っているのなんてわかっていた。お姉ちゃんが本当は快く思ってないのもわかっていたんだよ。でも、私にはこうするしかなかった……」
「アリア……」
アリアの言葉を聞き、アリスさんは悲しそうに目を伏せる。
アリアが抱える闇――平等院財閥で受けてきた酷い仕打ちを知っているからこそ、アリスさんにはアリアの気持ちが理解出来る。
俺も話を聞いていたからアリアが言ってる事の意味はわかった。
アリアが今まで他者を蹴落としてでも成り上がっていこうとしていたのは、自身の存在価値を見出すためだ。
幼い頃からアリスさんと比べられ、そして劣っているという事でいないも同然の扱いを受けてきた。
それを変えるためにもがき、やっと手にしたやり方が他者を蹴落とすという方法だったのだろう。
アリアに負い目を感じていたアリスさんが、妹が初めて見つけた生きる道を否定する事など出来るはずがない。
だからアリスさんが止められなかったのは仕方ないにしても、他の誰かがアリアを止めてやればよかったんだ。
そうすればこんな誤った生き方をする事はなかった。
アリアが一番不運だったのは、アリスさん以外に彼女の理解者が傍にいなかった事だろう。
後一人でもアリアの事を理解していて、彼女と真っ向から向かい合える人間が傍にいれば人生は大きく変わったはずだ。
けれど踏み外した道はやり直せる。
それにアリアがしてきた事は非情で最低な事だったが、幸いアリスさんが裏でフォローしてくれていたおかげで取り返しのつかない事態になったものはないらしい。
だからアリアがここで心を入れ替え、今までやってきた人たちに償いをすれば十分やり直せるんだ。
アリスさんがずっとアリアのフォローをしてきたのも、アリアが心を入れ替えた時にまともな道を歩めるようにするため。
そしてやっと、アリスさんが今までやってきた事は報われようとしている。
「ねぇ、アリア。アリアは自分にも価値があるんだって知らしめるために頑張ってきたんだよね」
それは、今まで傍にいて見続けたからこそわかる事。
アリスさんが見守り続けたアリアが頑張る理由だ。
「でも頑張れば頑張るほど、求められる事が増えるだけで一度も認めてもらえなかった。だから余計に頑張らないといけなくなったんだよね。それが例え、他者を蹴落とす行為だったとしても」
誰だって努力する事には限界がある。
それなのに限界以上の事を求められれば、努力以外の何かで補わなければならない。
アリアはその際に他者を蹴落とす事が簡単で効果的だと知ってしまったのだ。
そしてそれが彼女にとって不運だった。
「だけどね、もういいんだよ。アリアは十分みんなに認められている。わざわざ伝統ある学園を去ってまであの子たちが付いてきてくれたのがその証拠でしょ?」
アリスさんは優しくアリアの頬を撫で、視線をアリア親衛隊へと向ける。
アリアが自身の価値を求めているなら、その価値がもう十分にある事を証明してやればいい。
もしかしたらアリスさんがアリア親衛隊をアリアに連れてこさせたのは、ただ俺と同じクラスに仕向けるためだけではなくこの時のためだったのかもしれないな。
この人の場合はどれだけ先を読んでいても不思議ではない。
「だけど、私はまだお父様に認められていない……」
「父親だからこんな事は言いたくないけど――あの男は他人を認める事なんてないよ。アリスでさえも、あの男にとっては利用する駒にしか見られていない。アリアは自分を信じて付いてきてくれる子たちよりも、そんな男を選ぶの?」
「それは……」
アリスさんの言葉にアリアは黙り込んでしまう。
聞くだけでは信じられないが、平等院社長がアリスさんでさえも駒にしか見ていないというのは本当だろう。
アリスさんの事をちゃんと考えているのなら中学時代の事や、この前起きたアメリカでの事はなかったはずだからだ。
彼女が平等院社長の事を『パパ』ではなく『父親』と呼ぶのもその辺が関わっているんだろうな。
普通ならどちらを選ぶかなんて迷うほどでもないが、アリアの場合は父親に認められる事を目的とし、それが正しいと信じてここまで歩んできたため迷うのも仕方ないのかもしれない。
だがそれだけでなく、今までやってきた事が間違っていると自覚している事が逆に彼女にストップを掛けているように見える。
今更考えを改めたところで遅い、そんなふうに考えていそうだ。
このままアリアが答えを出すのを待っていていいのか――そう疑問に思っていると、目の前にいるアリスさんが俺に目配せをしてきた。
どうやら俺に後押しをしろと言っているようだ。
しかしここでアリアが敵視している俺が話しかけてもいいのかと迷ってしまうが、アリスさんは真剣な目で俺を見つめながらコクリと頷く。
『大丈夫』、そう言っているのだろう。
仕方ない、やるだけやってみよう。
「アリア、今ならまだやり直せる」
「カイ……?」
「人は真っ当に生きているように見えて、実は道を踏み外す事なんて珍しくないんだ。だけどみんな傍にいてくれる誰かのおかげで道を踏み外している事に気付き、償いをしてから真っ当な道に戻る。お前はまだやり直せるんだよ」
「わかったような口を……」
「わかるさ。かくいう俺だって何度も道を間違えた事があり、その度に周りにいてくれる人たちのおかげで真っ当な道に戻れているんだからな。道の間違え方によっては償いも大変になるし、実際お前が償う場合は大変な事だろう。だけど努力家のお前なら、ここで考えを改めさえすればきっと真っ当な道に戻る事が出来るはずだ」
実際俺だってアリスさんたちがいなかったらアリア以上の過ちを犯していた可能性がある。
道を踏み外してでも一歩踏みとどまれたのはアリスさんたちのおかげでしかない。
そして今は償っている最中でもあるんだ。
だからアリアが抱える不安もわかるし、これから彼女が大変な事になるのもわかる。
でも、やり直せるのならここでやり直すべきだ。
「それにな、お前さえその気があるならアリスさんや俺は全面的に協力するよ」
「なんであなたが……あなたは私の事嫌いでしょ……?」
「あぁ、嫌いだ。だけど嫌いなのは、人を陥れようとするお前であって、努力家のお前はむしろ好きだよ」
「――っ!」
アリアの質問に答えると、腕の中にいるアリアの体が強張った事がわかった。
そして目の前にいるアリスさんが凄く物言いたげに――というか、もう睨んでいるんじゃないかって目で俺の顔を見ている。
「本当にこの天然ジゴロは……」
挙句、大きな溜息をつかれる始末。
おかしい、俺はアリアを説得しようと精一杯頑張っているだけなのに。
「ねぇ、アリア。ここからもう一度やり直そう。ちゃんとした方向で努力をすればアリアはもっと上にいけるだけの素質があるよ。今道を踏み外している事がその素質の妨げになっているだけで、アリアは自分が思っている以上に魅力がある。それに、もしいらつくような事があればこれからは他の子にあたるんじゃなく、カイをサンドバッグにしていい」
さすがアリスさん。
アリアが今欲しいであろう言葉をちゃんと選んで――んっ?
ちょっと待て、最後のおかしくなかったか?
「なぜ俺がサンドバッグに……?」
「かわいい女の子に殴られる。カイにとってはご褒美でしょ?」
「俺にそんな性癖はありません!」
なんで咲姫にしろアリスさんにしろ、勝手に変な性癖を俺に植え付けるんだ!
しかも知らないうちにアリスさんの機嫌結構悪くなってるし!
「そっか、カイをサウンドバックに……!」
「いや、アリア? お前も何嬉しそうにしてるんだ? 言っとくけどお前がここで考えを改めたとしても絶対にサンドバッグにはならないからな?」
腕の中で少し嬉しそうな声を出すアリアに対して俺は忠告をしておく。
俺がサンドバッグになるからって理由で考えを改められたんじゃ敵わないからな。
「ふふ、わかってるわよ」
ツッコミを入れると、意外にもアリアが笑ったのがわかる。
いつもの人を見下したような笑顔ではなく、普通に自然体の笑顔だ。
こいつがこんな笑い方をするのは初めて見たかもしれない。
「考えを改めるつもりになったのか?」
アリアがここで笑ったという事はそういう事なんだと思い、俺は彼女に確認を取ってみる。
するとアリアは首だけを俺のほうに回し、なんだか呆れたように笑った。
「そうね、なんだか馬鹿らしくなってきた」
「馬鹿らしく?」
「えぇ、そうよ。もしこれからも今のやり方を続けた場合、あなただけでなく、お姉ちゃんやクロも敵にしていかなければいけないんでしょ? それはあまりにも馬鹿らしいじゃない。だからもう今までやってた事はやめる事にしたの」
「そういう理由か……」
アリアが考えを改めるようになってくれたのは嬉しいが、理由が望んでいたものじゃなかった。
俺はそれを残念に思ってしまうが、そんな俺たちを見ていてアリスさんがニコッと笑みを浮かべたのがわかる。
「ただの照れ隠しだよ」
「ちょっとお姉ちゃん!? 変な事言わないでくれる!?」
そっか、照れ隠しなのか。
なるほど、これがツンデレという奴なんだな。
「ねぇ、お姉ちゃん。なんだかカイが変な事考えてる気がする」
「そうだね、とりあえず後でおしおきしておこう」
俺が生のツンデレを見て少し感動を覚えていると、平等院姉妹が不穏な事を言い始めた。
先程までとはまた別の意味で修羅場みたいな雰囲気が武道場内に流れている。
アリスさんに限ってはさっきから若干俺に対する視線が痛かった。
なんだか本当にさっきからアリスさんの機嫌が悪くないか……?
――異様に冷たく接してくるアリスさんを前にして、俺の背中には冷や汗が流れ始めるのだった。
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