第226話「聖母のような優しさ」
目の前に来たアリスさんを見て、俺は関節技から拘束技に切り替える。
もうアリアを痛め付ける必要はない。
これから行われるのはただの会話だ。
だけど、一応拘束だけはしておく。
今アリアは冷静じゃないため、下手をすると裏切り者であるアリスさんに手を出す恐れがあるからだ。
「何が終わりにしようよ! 始めたのはそっちじゃない! 私を裏切って――ボロボロにされる私を見られて楽しかった!?」
終了を望むアリスさんの言葉をアリアは拒絶する。
それどころか怒りの矛先を俺ではなくアリスさんに向けていた。
そしてその声は涙声になっている。
気付かれないように横顔を見てみれば、アリアの頬には涙が伝っていた。
俺が与えた痛みによるものというよりも、多分アリスさんに裏切られていた事がそれほどショックだったのだろう。
先程は強がっていたというわけだ。
無理もない、信じていた姉に裏切られれば誰だってそうなる。
むしろ少しの間だけでも取り繕えたアリアは偉いと思った。
「うぅん、楽しくないよ。例えカイが相手だろうと、妹が痛め付けられて楽しいはずがない」
アリスさんは優しく、そして言い聞かせるような声でアリアに話し掛ける。
相手が怒っている時に感情的に返してはいけない。
そんな当たり前の事、アリスさんも当然知っているのだ。
「だったらどうして裏切ったのよ! この男の事が好きだったんでしょ!」
「うん、カイの事は好きだよ」
「「「「「――っ!」」」」」
まさかここで肯定されるとは思っておらず、俺やアリア、そして周りで観戦していたみんなが驚いたように息を呑む。
アリスさん、あれですよね?
友達として好きとかいう、そういう奴ですよね?
俺は戸惑いのこもった瞳でアリスさんを見つめる。
するとニコッと笑みを返されてしまった。
いや、あの、えっ……?
その笑みはいったいどういう意味でしょうか……?
当然そんな笑顔を返されれば俺の中では答えは出ず、むしろ余計にどちらの意味かがわからなくなって混乱してしまった。
だけどこんな場所で聞けるはずもなく、俺はグッと我慢してアリアに視線を向ける。
アリアは少しの間ボーッとしていたが、ハッと我に返ったように声を出した。
「ほらやっぱり! この男に好かれたくて私を売ったんでしょ!」
アリスさんの先程の言葉はアリアが抱いていた疑いを深めるものだった。
だからアリアがこう解釈してしまうのも仕方がない。
このまま任せていて大丈夫なのか?
他の人間が相手なら多分俺はそう考えただろう。
だけど今アリアと向き合っているのはアリスさんだ。
俺なんかが心配する必要なんてない。
「一つ、アリアの考えを正す。カイに好かれたいなら、こんな事絶対にしたらだめだよ」
「……どういう事よ?」
アリスさんが言ってる事の真意がわからず、アリアは訝しげにアリスさんに尋ねる。
そんなアリアに対してアリスさんは優しい笑顔のまま口を開いた。
「カイはね、裏切りをもっとも嫌う。だからカイに好かれたいのならこんな事は絶対にしてはだめ」
「はっ、そんなの信じられるわけないじゃない! 現にこいつは裏切り者のあなたに手を貸してるじゃない!」
「そうだね。でもそれは、既にアリスとカイが信頼しあえるだけの関係にあるからこそ成り立っているもの。そうじゃなければ、例え必要な事だろうとカイは力を貸してくれなかったよ」
おそらくだが、この場にいる多くの人間はアリスさんの言いたい事がわかっていないだろう。
この人の言葉はわかりづらい事が多いからな。
もちろん、長年アリスさんと一緒にいるアリアには伝わっているだろうが。
アリスさんが今アリアに言いたい事はこうだ。
『好かれるためにアリアを売ったというけど、そもそも既にそのような関係にはなっている。カイが自身の嫌っている事に手を貸しているのがその証拠。だから好かれるためにアリアを売る必要なんてない』
それはつまり、アリアの憶測が間違っている事を意味する。
しかしアリアがそんな事で納得するはずもなく、再びアリスさんに噛みつき始める。
「だったらどうして私を裏切ったのよ!」
アリアの疑問はもっともだ。
憶測が否定された以上、結局話はそこに行き着いてしまう。
一つ意外だったのは、俺が拘束技に切り替えてからアリアが全く抵抗しなくなった事だ。
別に抵抗をして痛みが走るわけでもないし、アリアの性格なら文句と同時にアリスさんに飛びかかろうとしても不思議じゃない。
だけど今のアリアは口でつっかかっているだけで、体は借りてきた猫のようにおとなしかった。
むしろわざと拘束されている節すらある。
――そう、まるで、拘束されているから手が出せないと言い訳するかのように。
ふと、握っているアリアの手がかすかに震えている事に気が付いた。
その震えを感じて俺は今の状況に合点がいく。
アリアは怖いんだ、アリスさんに歯向かう事が。
心の底にまでアリスさんには勝てないという考えが刷り込まれており、本当に対立する事になれば自分が潰されてしまう事を理解してしまっている。
だから歯向かう事に恐怖を感じていて、それを懸命に隠しているのだ。
今怒鳴り散らしているのもアリスさんに対しての怒りだけじゃない。
自分を鼓舞するために怒鳴っているというのもあるのだろう。
こいつはこう見えて、案外弱いのかもしれない。
弱いからこそ、そんな自分に負けないように強がろうとし、他者を威嚇する。
それは人によって滑稽として映るのだろう。
だけど俺はそうは思わなかった。
アリスさんがどうしてアリアを大切にしているのか、ここまで接してきた俺にはなんとなくわかる。
やっぱり、ただ妹だからという事ではないんだ。
色々とやり方は間違っているけど、こいつはこいつなりに頑張っている。
頑張っている奴を、アリスさんが見捨てられるはずがないんだ。
「アリスはもう、アリアにこれ以上道を踏み外してほしくない」
「私の何処が道を踏み外しているって言うのよ!」
「ほとんどだよ。他者を蹴落として登りあがる人生になんの価値があるの?」
「――っ! そうするのが普通でしょうが! みんなそうやって上に上がっていってる! 自分が特別だからって調子に乗りすぎよ! それにアリスだって私に協力してたんだから同罪のはず! 私が道を踏み外した事をしていたと言うのなら、あなただって踏み外してるんじゃない!」
自信の人生を否定され、アリアは更に裏切られた気分になっただろう。
そしてアリアが言ってる事も間違ってはいない。
道を踏み外したアリアに協力していた時点で、アリスさんも道を踏み外している。
だけど一つ違う部分もあるんだ。
アリスさんは道を踏み外すと同時に、アリアの過ちを償い続けていた。
道を踏み外していたのだって、アリアが自分で正しい道に戻ってくれる事を信じて添い遂げていただけだ。
だけどアリアはそれらの事を知らない。
「そうだね、だからアリスも一緒に償う」
まるで聖母かと思うほどに優しい笑顔でアリスさんはアリアの怒りを受け止め続ける。
それは妹を愛しているからか、それともアリスさんの優しさなのか。
おそらく両方だろうな。
アリスさんはアリアの怒りを全て受け止めるつもりでいるらしい。
だが、その余裕がアリアには気に入らなかったようだ。
俺が拘束してから初めてアリアの体に力がこもった。
「どんだけ上から目線なのよ! どうせアリスがカイの事を気に入ってるのだって、死んだあの子の面影をカイに重ねているだけでしょ! あの子やカイの思いを踏みにじっているあなたのほうが余程最低じゃない!」
死んだあの子――不穏な言葉に引っ掛かりを覚えるが、その存在に俺は心当たりがない。
だけど、アリアの言葉を聞いてアリスさんの顔色が変わったのがわかる。
――しかしそれは、アリアに図星を突かれて動揺したというわけではない。
むしろ逆。
その言葉を待っていたと言うかのようにアリスさんは微笑んだ。
先程までとは違う意味がこめられた笑顔。
思わず見入ってしまいそうな綺麗な笑顔だが、綺麗すぎて逆に怖く感じてしまう。
今アリスさんが何を考えているのか俺にもわからない。
ただ、口を挟んではいけない事だけはわかった。
俺は黙ってアリスさんの言葉に耳を傾ける事にする。
そして彼女が次に言葉にしたのは――
「アリアが殺したと思っている天才中学生なら、今もちゃんと生きているよ。ほら、君のすぐ後ろにいる」
――何も知らない人間からすれば、正気を疑うような言葉だった。