第216話「偽りだらけの言葉」
「――だから、させないって言ってる」
誰もが固唾を呑んで見守る中、静寂を割くようにアリスさんが口を開いた。
アリスさんはジッと俺の顔を見据え、全身から殺気にも近いおぞましい雰囲気を放っている。
これは本当に演技なのか?
アリアを追い詰めすぎて本気で怒ってるんじゃないのか?
――そんな考えが頭を過るが、今更プランの変更など出来やしない。
アリスさんを信じてやり遂げるしかないだろう。
「では、どうしようというのですか?」
「あの件を白紙に戻す――と言っても、まだ今のような態度を取り続けられる?」
俺はアリスさんの言葉に眉をピクリと動かす。
だけど、すぐに何事もなかったかのように笑みを浮かべた。
「――あの件? あの件ってなんだ?」
「さぁ……?」
教室や廊下からは今のアリスさんの発言に疑問を持った声が聞こえてくる。
皆が皆、アリスさんの言葉の真意を知りたいといった感じだ。
「あれは双方に多大な利益があるから契約を結んだはずですが?」
そして、俺のこの言葉によって全員に得心がいく。
「――あぁ、だからあの二人よく一緒にいたんだ」
「神崎さんがアリスさんに何かうまい話を持っていき、お互い同意の上で手を結んでいたって事だよな?」
「そうなるな。だから神崎さんはアリスさんに敬語を使ってるのか。ほら、取引相手だから丁重に扱うって感じで」
「でも、二人って取引相手っていうよりも仲がいい恋人みたいな感じだったけど……」
「馬鹿だな、今の神崎さんたちを見ててそう思うのか? 顔では笑みを浮かべていても、内心探り合いをしてたんだろ」
「まぁ今の雰囲気を見る限り恋人には見えないよな。いったいどんな取引を持ち掛けていたんだろ?」
「多大な利益って言ってるから大金が手に入る内容なんだろうな」
――大方、こちらが予想していた通りに勘違いをしてくれていた。
普段からここの生徒たちは思っていただろう。
どうしてアリアとは犬猿の仲なのに、アリスさんとはよく一緒にいて敬語で話しているのか。
俺がアリスさんとの関係を雲母以外のクラスメイトに漏らした事はない。
だから皆いろいろと憶測していたはずだ。
そんな中今回は確信にも近いヒントが放り込まれた。
そのせいで今みたいに、みんなは深く考えずに納得をしてくれる。
――俺がアリスさんに敬語を使いながら仲良く接していたのは、なんらかの取引を持ち掛けるためだったのだとな。
そして同時にこうも思ってるはずだ。
平等院アリスとは何者なのか――と。
当然皆、アリスさんがアリアと同じ平等院財閥のご令嬢だという事は知っている。
だから俺が言いたいのはそういう事ではなく、平等院アリスという人間についてと言えばいいだろうか。
元々アリスさんがミステリアスな雰囲気を醸し出しているのもあるが、この場で俺に臆する事もなく、普段とは真逆ともいえる凛とした雰囲気を纏っている事が生徒たちに戸惑いを生んでいるのだ。
普段とのギャップにクラスメイトたちも目を丸くしている。
――本来ならアリスさんはこういう表舞台には立ちたがらない。
俺と同じでこの人も注目をされる事が嫌いだからだ。
だけど俺を表舞台に押し出してしまったのだから、自分も同じように表舞台に立つ必要があるとアリスさんは言っていた。
それは俺に対するけじめなのだろう。
別に俺が表舞台に立つ事にしたのは自分の意思なのだから気にしなくていいのに、本当にこの人は見掛けによらず優しい人だ。
そしてアリスさんが表舞台に出てきてくれた事で俺が助かっているのも事実。
元々この場についてはアリスさんと詳細は詰めていなかった。
理由は、多くの生徒が集まるとそれだけ予期せぬ事態が起こる可能性があり、詳細に決め事をしていたらそれが足枷になってうまく対応が出来なくなるからという事だ。
だから俺たちは軽い打ち合わせをしただけで、後は全てアドリブに任せている。
――いや、正確には、俺は計画通りに動きながら周りの反応に対して微調整をしているだけで、アリスさんがそれに対して完璧に合わせようとしてくれていた。
俺の事をよく知り、そして誰よりも洞察力に優れているからこそ出来る芸当だろう。
おかげで場の空気を誘導するのがかなり楽だ。
俺一人だったら絶対にこうはいかない。
「アリスは多少の事なら目を瞑ると伝えていた。だけどこれは誰の目から見てもやりすぎてる。このまま矛を収めないなら、契約を破棄する事もやむなしになる」
「そうなると、賠償金を払って頂く事になりますが?」
「そんな些細なお金、いつでも払ってあげる」
アリスさんの言葉で皆が息を呑む。
彼女は些細なお金と言っているが、こういう場合に払われる金は決して少ない。
イメージする金額は人それぞれだろうが、先程の俺たちの会話を聞いている事で大金だと思い込んでいるだろう。
大金が動く契約の違約金ならそれ相応の額が必要となるからだ。
「ふむ……やはりあなたはそうきますか。では、これならどうですか? アリアに対して手出ししない代わりに、もう一戦勝負をしましょう」
「勝負……当然、ただ勝負するだけでは終わらないって事だよね?」
「えぇ、そうです。俺が勝ったら一つだけなんでも言う事をアリアに聞いてもらいます」
「アリスたちが勝ったら?」
「特に何もないです」
「「「「「はっ?」」」」」
――周りにいる生徒たちからそんな声が漏れる。
俺が勝ったらアリアにはなんでも一つ言う事を聞けと言ってるのに、俺が負けた場合は何もないんだからそれも当然の反応だろう。
普通ならこんな勝負は引き受けない。
しかし――。
「引き受けなければ、平等院財閥を潰しにかかるつもり?」
「相変わらず察しがよくて助かりますよ」
アリスさんの言葉に俺は笑顔で頷く。
「正直俺としては折角の大金が手に入る機会を失うのは惜しい。ですからこちらが出来る譲歩はここまでです。もしそれを断りあなたが敵に回るのであれば、こちらもそれ相応の対応が必要になる。あなたを相手取るには西条財閥だけでなく、紫之宮財閥の力も必要になり、結果的に平等院財閥を潰さなければなりません。とはいえ、それも全てあなたが断ればという前提であって、ここで勝負を引き受けてくれるのなら何も問題はない」
俺は脅しをかけるように笑顔のまま告げる。
いくらアリスさんが凄いとはいえ、誰がどう考えても個人で大手財閥二つを相手どれるはずがなかった。
そんな事は何も知らない生徒たちにも十分に理解出来ている事だろう。
つまり今の状況では、契約が白紙に戻る事も視野に入れて俺が勝負を持ち掛けた以上、アリスさんたちも呑むしかないのだ。
廊下側から『きたねぇ……』というような声がいくつも聞こえてくるが、俺は聞こえないふりをしてアリスさんを見つめる。
するとアリスさんは少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「いいよ」
「お姉ちゃん!?」
勝負を受けたアリスさんの事をアリアが驚いたように見つめる。
仕方ないとはいえ、アリスさんなら何か手を打つと思っていたのだろう。
――当然、アリスさんがこれだけで終わるはずがない。
「その代わり、勝負をするのはアリスじゃなくてアリア。そして、勝負内容もこちらで決めさせてもらう」
アリスさんが勝負を呑む条件として提示してきたのは、自分たちが有利になるように勝負内容を決めさせろという事だった。
丁度アリアと勝負をしていた時と真逆の立場になる。
「あなたじゃなくアリアとやり合うのは俺にとっても好都合ですが、勝負内容を決める事を許すとでも?」
「君は呑むしかないよね?」
俺の質問に質問で返すアリスさん。
アリスさんが勝負を受けるしかないように、俺もなるべく彼女の要求は呑まなければならない。
そうじゃないと、折角の大金が手に入る機会を逃してしまうからだ。
契約が白紙になるのはあくまで最悪のケースであって、出来る事なら避けたい。
もし契約が白紙になる事を気にしないのなら、そもそも直接潰す予定だったのを勝負になんて変えていないだろう。
――と、そんなふうに他の生徒たちは想像しているのではないだろうか。
事実なんて関係ない。
ただ周りをそう思わせれればいいのだ。
「ふむ……こちらも一応結構なリスクを背負ってこの場を用意している。決定権をそちらに譲るのは些か抵抗がありますね」
「だったら、そっちが勝ったらアリスの事を好きにしていい。それでどう?」
俺が難色を示すと、アリスさんは迷いなく自分を賭け金として投入してきた。
皆アリスさんの正気を疑っているだろう。
今しがたアリアは俺に完敗を喫したのに、そのアリアに自身を賭けているのだからな。
「お、お姉ちゃん! さすがにそれはだめよ!」
当然、アリアはアリスさんを止めに入る。
だけどアリスさんはそんなアリアの目を見つめて優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫、アリアは負けない」
「で、でも……今私、カイに負けたばかりなのよ……? お姉ちゃんがやったほうが絶対に勝てるじゃない……」
「確かにアリスがやれば負ける可能性は皆無」
傲慢とも取れる発言。
しかし彼女の言葉を馬鹿にする者はこの場にはいない。
アリアや俺の発言からアリアよりもアリスさんのほうが格上だと周りが理解したのもあるが、彼女が纏う絶対的な自信に溢れた雰囲気が彼女の発言を軽視させないのだ。
俺は口を挟まず二人のやりとりを見続ける事にする。
「だけどこれは、アリアが始めた勝負。だったら自分でちゃんと決着を付けないとだめ。それに、やられっぱなしなんてアリアらしくない」
まるで幼子に言い聞かせるかのようにアリスさんは優しい声でアリアに話し掛ける。
傍から見れば妹を鼓舞する姉のように見えているだろう。
実際、アリスさんに声を掛けられているアリアの目には力が戻ってきていた。
――今、アリスさんはどういう気持ちなのだろう。
偽りだらけの言葉で妹を誘導するなんて、本当はしたくなかっただろうな。
俺は目を瞑り、アリスさんの心情を考えると胸が痛んだ。
だけど、だからこそ俺はやり遂げないといけないだろう。
自分一人ならまだしも、アリスさんにまで最低な事をさせている。
これで失敗なんてしたら、俺はアリスさんに顔向けが出来ない。
「全く、大した自信ですね。いいでしょう、さすがに認める事の出来ない勝負もあるが、あなたの傲慢さに免じてそちらに勝負の決定権を譲ります。――で、アリア、お前はどうするんだ?」
アリアが元気を取り戻した事を確認した俺は二人の会話に割り込むと、アリスさん側に勝負の決定権を譲ると共にアリアへと視線を向けた。
俺とアリスさんがどう話を進めようと、勝負をする相手がアリアなら当然アリアがやる気でなければ話にならない。
――とはいえ、聞くだけ無駄だっただろう。
俺に挑発されるような視線を向けられたアリアはキッとこちらを睨み、立ち上がるとビシッと俺へと指を向けてきた。
「お姉ちゃんがここまで言ってくれてるのに引き下がれるわけないでしょ! もう一度勝負よ、カイ!」
一度心が折れたアリアは、姉の励ましにより戦意を取り戻した。
もうほぼ普段通りに戻ったと見ていいだろう。
いや、普段以上にギラギラと戦意に溢れた目をしている。
こんな目をする奴が、やっちもない勝負を選択する事はないはずだ。
そしてこの勝負が決着を迎えた時――果たして、アリスさんは笑ってくれているのだろうか。
俺は息巻いているアリアを見つめながら、視界の端に映るアリスさんの事を考えるのだった。