第207話「もっと自分の気持ちに素直になれ」
「――本当、お前の考え方はよくわからないな」
カイが家に入った事を見届けてすぐ、黙ってアリスたちを見つめていたママが話し掛けてきた。
忙しいはずのママがわざわざ付いてきたのはカイの特訓を継続していいかどうかの判断を下すため。
そしてもし続行が不可能となれば、反論するカイを押さえ付ける役目を担うためだった。
カイはメキメキと力を付けている。
もう既にアリアと互角に渡り合えるぐらいの実力は付けていると思う。
それは元々男女の違いに寄る体格差やカイが喧嘩慣れしていたおかげではあるけど、あの子自身のセンスと弱音を吐かない努力が実った結果と言える。
アリアと互角に渡り合えるようになったカイを取り押さえる場合、ニコニコ毒舌ではカイに怪我をさせてしまう恐れがあった。
だからニコニコ毒舌の代わりにママが自ら出向いてくれている。
表情や態度には見せないけど、ママもカイの事を気に入ったみたい。
最初は失望すらされていたのにさすがと言える。
あの子は自分を卑下にするけど、ママやクロのように分かる人間にはちゃんと好かれる人間。
カイが手段を選ばないのは大切な人を守るために必要な事だから。
それをなしにすればあの子は真面目で誰よりも努力家になる。
そんな人間が好かれないわけがない。
もっと自信を持てば多くの人間から慕われる存在になるはず。
でもまぁ、それはまだまだ先の話。
今は目の前の事だけに一生懸命になればいい。
そうすれば、気付いた時には多くの人間が後ろを付いて来てるだろうから。
あの子にはそれだけの器がある。
「何が……?」
アリスは視線を外の夜景へと向けながらママの言葉に返事する。
何を聞きたいのかわかってるけど、わかってるからこそ今はあまり話をしたくない。
だけど、ママがここで話をやめてくれるはずもなかった。
「アリスはカイの事が好きなのだろう? カイもお前の事を好きなはずだ。まだその気持ちは恋愛感情じゃないかもしれないが、恋愛感情に変わる可能性は十分にある。それなのに、どうしてお前は身を引く?」
先程のアリスとカイのやりとりを見て持った疑問。
彼氏になってほしいとアリスがカイに言って、それを取り下げた事を今は聞かれてる。
「カイの……幸せのため……」
アリスがカイを好きになっている事を誤魔化してももうママには通じない。
だからアリスは受け入れた上で本当の事を言う。
「幸せならお前がしてやればいいだけの話だろ」
「…………」
「親の贔屓目なしにしてもトータルで見てアリスの隣に出る者はいない。金もある。金を稼ぐ才能もある。見た目も金髪美少女で華がある。そして頭脳だって過去に数人しかいないIQ250越えだ。検査が追い付かなかったから正確にはわからないが、IQ300だってあるかもしれないと言われているお前に、いったい何が足りない? 何を臆する事がある?」
ママはアリスの事を絶賛してくれる。
傍から見るとただの親ばかにしか見えない。
でも、そこまで言ってくれるママの言葉は素直に嬉しかった。
一緒に住んでいたあの男よりも断然ママのほうが親らしい。
あの男の手によってママと離れ離れにされなければ、アリスやアリアにはまた別の人生があったかもしれない。
本当、アリスの人生はいろんなものを奪われてばかりだ。
「別に……臆してなんか……ない……」
そう、恋愛に対して怖がっているわけじゃない。
アリスはそんなものを怖がるほど弱くない。
もっと他の理由があるからこそ、アリスは身を引いている。
「だったらどうしてだ?」
ママは遠慮なしにグイグイ聞いてくる。
興味本位で聞いてきてるわけじゃない事はわかってるけど、人の傷口を広げるのはやめてほしい。
「カイには既に……好きな人が……いる……」
「なんだそんな事か。それならばカイを自分に振り向かせれば済む話じゃないか。別にカイが付き合っているわけじゃないんだろ?」
「簡単に……言ってくれる……」
「実際お前なら他人の心を操るくらい容易いだろ?」
「…………」
アリスはママの言葉に黙り込む。
容易いとまでは言わないけど、確かに可能な事ではある。
実際過去のアリスは生意気だったニコニコ毒舌を懐柔しているし、カイだってアリスに依存するように仕向けてきた。
少しやり方を変えれば、カイの心を変えられるかもしれない。
しかもアリスにはその方法が見えてしまっている。
でも、アリスは行動に移すつもりはない。
理由は二つ。
カイが持つアリスのイメージを――尊敬する対象としてのイメージを崩したくないというのが一つ。
このイメージを壊さない限り、カイはアリスの事を女の子としては見てくれない。
だけどこのイメージを壊してしまえば、カイが困った時アリスじゃない別の人間――例えば、一番最初にクロを頼るようになるかもしれない。
――そんなの嫌。
クロが頼りになる事は知ってるけど、アリスが一番じゃないと許せない。
そうじゃないと、アリスが今までしてきた事はなんだったのかって話になってくる。
だから嫌。
そして二つ目の理由――アリスが動かないでいる理由の一番はこっちにある。
「相手の子も……カイの事が……大好き……。もしカイを奪えば……その子は泣いてしまう……」
そう、一番ネックなのは桃井の子がカイの事を大好きだという事。
なのにアリスがカイを盗ってしまうとあの子が泣き崩れるのは火を見るよりも明らか。
そうなってしまえばカイはきっと自分を責める。
カイにとっても桃井の子はとても大切な存在で、一番守りたいと思っている子だから。
そのため、アリスは桃井の子が泣くような事を望まない。
それにカイも桃井の子の気持ちに気付いている。
そしてどう答えを出そうか迷い続けていた。
カイがどう答えを出すのか、それはまだアリスにもわからない。
でも、ここでアリスが変に行動をしてしまうとカイが困ってしまう事だけはわかっている。
だから動けない。
アリスはカイを困らせたくないから。
……さっきカイに言った事は本当に失言だった。
なんで言ってしまったのか自分でもわからない。
あんな――彼氏になってほしいみたいな事を……。
「恋愛なんて誰かが泣くのは当たり前だろ。むしろ泣く人間が出ないほうが少ない。お前、自分で言い訳を作ってるだけで本当は覚悟がないだけだろ?」
「どういう事……?」
覚悟が足りない?
アリスに?
今までアリスが覚悟を決めなかった事は一度もない。
どんな事にでも覚悟を持って臨んできた。
それなのにアリスに覚悟が足りないって言うの?
アリスは納得がいかずママの顔をジッと見つめる。
いったいママが何を考えているのか、それを表情から読み取るために。
「一人の女としてカイに向き合う覚悟。誰かを傷つける覚悟。人から――大切なものを奪う覚悟だ」
ママはそんなアリスの事を気にした様子もなく、足りない覚悟について言ってきた。
「別に向き合おうと思えば向き合える。それに後半二つの覚悟なんていらない」
「ふっ、図星を突かれて本気になったか。とぼけるなよ、後半二つがもっとも大事だって事をお前はわかってるだろ?」
「…………」
「人生競い合う事が全てだ。何においても優劣がつき、勝った負けたが生まれる。そこに傷つかない者なんていないんだよ。そして時には相手の大切なものを奪わなければ自分の大切なものが奪われる事だってある。アリスのような将来会社を率いていかなければいけない人間は特にだ。お前がその事をわかっていないわけがないだろ? だから今お前が言い訳ばかり作るのは、それらの覚悟が足りないせいで逃げ道を作ってるだけなんだよ」
ママの言葉はアリスの怒りを買った。
今までで生きてきた中でも上位に入るほどの怒りだ。
アリスがどんな想いで決断したのかも知らないのに、ここまで勝手な事を言われれば怒りを覚えて当たり前。
いくらママだろうとこれは許せない。
「勝手な事を言わないで! アリスの気持ちも知らないくせに!」
アリスが大声を挙げたのはいつぶりだろう。
実の父親に裏切られて、カイを追い詰められた時以来かもしれない。
あの時に比べれば些細な事だけど、それでもアリスは大声を挙げてしまった。
そして気が付く。
自分がこんな些細な事に怒ってしまうほど余裕がなくなっていた事を。
「いや、わかるよ。お前がそんなふうになるまでカイの事を好きになってしまっているんだろ? もう気持ちを抑えられなくなってるじゃないか。それなのに、どうしてそこまで我慢をする。お前はどれだけ一人で傷つき続けるんだよ」
アリスが怒鳴ってしまったにもかかわらず、ママは逆にとても優しい声を出した。
まるで幼い子供に言い聞かせるかのような優しい声。
きっとママはわざとアリスを怒らせてさっきの言葉を待っていたんだ。
今度はママの優しい言葉がアリスの琴線へと触れる。
大した言葉を言われたわけでもないのに、なぜか胸と目元が熱くなってきた。
そして視界が少しぼやけ始める。
「アリスは賢くていろんなものが見えてるせいで少し大人になりすぎだ。お前はまだ十六歳なんだ。もっと自分の気持ちに素直になればいい」
「でも……アリスが我慢しなくなると……周りから全てを……奪っちゃう……」
これは、いつもの気怠げな口調でこうなってるんじゃない。
普通に話そうとしているのに上手く言葉が出てこなかった。
「アリスなら本当に奪っては駄目なものとそうでないものの判断はつくだろ。だけど、それでも本当に人から奪ってはいけないものまで奪おうとしているのなら、親である私がどんな手段を用いても止めてやる。アリアだって今はああだが、今回の事が上手くいけばちゃんと良し悪しを判断し、お前が間違った事をしようとすれば止めてくれるようになるだろう。何より、今のお前にはカイやクロがいるんだ。あの二人ならお前が間違っていた場合絶対に止めてくれる。だからもう少しわがままになっていい。少なくとも、カイの事に関してはお前一人が身を引く必要なんてないんだ」
ママはそう言った後、優しくアリスの頭を撫で始めた。
そのせいで我慢しようとしていたものが我慢出来なくなる。
ずっと目元に溜まっていた雫がツゥッと頬を伝い始めた。
何回手で拭っても雫は止まらず、ポロポロと溢れかえってくる。
こんな事初めてでアリスはどうしたらいいかわからなくなった。
「お前は素っ気なく見せてるくせに誰よりも優しすぎるんだよ。もっと自分の気持ちに素直になれ、いいな?」
「うん……」
涙が止まらなくなったアリスはただママの言葉に頷く事しか出来なかった。
言いたい言葉だってあるし、誰も傷つけたくない気持ちも変わらない。
だけど、アリスはもう何も言い返す事をしなかった。
その代わり――もう少しだけ、自分の気持ちに素直になろうと心に決めるのだった。