第206話「なんであんな事言ったんだろう」
「――カイ……着いたよ……」
優しい声と共にポンポンッと胸を叩かれ、俺は少しずつ意識が覚醒する。
重たい瞼をゆっくりと開けると、目の前には微笑みながら俺を見下ろすアリスさんの顔があった。
頭の下にはとても柔らかい感触がある。
……そういえば、家に送ってもらう際にアリスさんが膝枕をしてくれたんだった。
体が筋肉痛に蝕まれているだけじゃなく、積もりに積もった疲労によってフラフラとなっている俺の事を彼女は心配してくれたのだ。
彼女の膝枕に甘え始めている事に怖くなるが、折角の申し出を断れるはずもなく膝枕をしてもらっていた。
おかげで少し疲労が抜けている気がするのは、俺が単純なだけだろうか。
「ありがとうございます……。それじゃあ……また明日……」
俺は筋肉痛や特訓で負った痛みに耐えながらゆっくりと頭を持ち上げる。
明日も学園があるから今日も早く寝ておきたい。
少しでも睡眠時間を多くしないとこのままでは本当に体が持たないだろう。
「カイ」
「はい……なんですか……?」
車から降りようとすると名前を呼ばれたため、ゆっくりとアリスさんのほうを振り返る。
するとアリスさんは普段の気怠げな様子ではなく、凛とした姿で対面する事を躊躇してしまうような雰囲気を纏っていた。
その様子を見て俺は次に何を言われるのかわかってしまう。
だから、即座に頭を回転させた。
「もう限界。それ以上はカイの体が壊れる」
ここ最近の俺の様子を見て、彼女がこの判断を下すのは当然の流れだった。
むしろよく待ってくれたと思う。
それは俺に対する信頼の証だったのだろう。
しかし、とうとうその線引きも俺は超えてしまったようだ。
アリスさんが限界と判断したのなら本当にもう限界なのだろう。
自分の体は自分が一番わかるというが、他者から見たほうがわかる点もある。
そしてその指摘者がアリスさんならほぼ間違いないと見ていい。
俺としても自分の体が限界にきているのはわかった。
学園でこそなんとか取り繕っているものの、昼休みにはもう意識を保てなくなっている。
だからみんなから離れ、アリスさんの計らいで昼休みは保健室を使って寝させてもらっていた。
体育では体育祭に向けての個別練習が行われているが、それもアリスさんの我が儘に付き合うという形で必要最低限の参加しかしていない。
アリアに勘繰られるとわかっていてもアリスさんは俺のために色々と手を回してくれていた。
それなのにこんな状況になってしまって申し訳ないと思う。
だけど、この生活がいつまでも続くわけではない。
アリアとの決着はもうすぐだ。
それにその三日前からは当日のコンディションをベストに出来るよう調整に入ると聞いている。
だから後数日の我慢なんだ。
ここでやめて中途半端な事にはしたくない。
今のままではアリアに勝てないからこそここまで追い込んでいるんだ。
やめるという事は今までの過程を無駄にし、アリアの改心を諦める事を指す。
そんなの納得出来るわけがない。
「大丈夫です、俺はまだやれますよ」
「何処が? 歩くのさえやっとで、意識を保てなくなったりもしてるのに大丈夫なわけがない」
「意識を保てなくなってるといっても別に倒れたりしてるわけじゃないです。気を張っていれば意識を保てますよ」
「今大事なのは意識を保てる保てないという話じゃない。このまま特訓を続けていれば体が壊れるって言ってる」
アリスさんが意識について話を持ち出してきた事をいい事に話題を逸らそうと思ったのだが、俺が誘導し始める前に先手を打たれてしまった。
やはりこの人には下手な駆け引きは通用しない。
「前にも言ったように、ここで無理をしてまでアリアを改心させる必要はない。卒業まで時間はまだ一年以上あるのだから、アリスと二人でゆっくりとやっていけばいい」
遠回しに、『カイが一人で抱え込む必要はない。無理なら無理で今回は諦めて次に回そう』と彼女は言っているのだろう。
おそらくアリスさんなら卒業までにアリアが雲母たちに危害を加えようとしても何かしらの手を打って守ってくれるはずだ。
彼女が懸念しているのは将来アリアが自分の言う事を聞かなくなった時の暴走についてであって、現状のアリア自身を脅威に思っているわけじゃないからな。
きっとここでアリアに対する懸念を挙げてもアリスさんは全てに対して対応方法を返してくるだろう。
前に俺の想いを打ち明けて無理矢理納得してもらった事があったが、今回はその手もあまり通じないとみていい。
アリスさんは俺の想いも込みで、ここが限界だと判断したはずだからな。
ここで下手に反発しようものなら青木先生を使って武力行使で止めにくる可能性もある。
今アリスさんの頭の中では、俺は頑なに言う事を聞かない存在だと思われているはずだ。
最悪武力行使も視野に入れ始めている頃だろう。
この人が武力行使なんていう最低な手段を嫌っている事は知っているが、今回は俺が体を壊さないように止めるという目的がある。
正当化出来る理由があるのならカードを切る事も厭わないはずだ。
――ならば、アリスさんの言葉にも耳を傾ける姿勢を保ちながら、別の切り口から攻める事にしよう。
「確かに時間に余裕があるのならわざわざ体を壊すリスクなんて取る必要がないですね」
「うん、そう。わかってくれた?」
「はい、アリスさんが言ってる事はわかってますよ。ところでアリスさん、学園生活にいい思い出はありますか?」
俺は彼女の言葉に同意した後、全く別の方向――話すら変わるじゃないかと思われるような質問をぶつける。
「急に何……?」
さすがのこれにはアリスさんも怪訝な表情を見せた。
この話題逸らしとも取れる質問に何か意味がある事には気が付いているようだ。
ジッと俺の顔を見つめている事から、今は俺の表情で考えを読み取ろうとしているのだろう。
「俺は学園生活に全くいい思い出がないです。少なくとも、今の学園に入ってからはね。アリスさんはどうですか?」
「……いい思い出なんて、あるはずがない」
ジッと俺の顔を見つめながらもアリスさんはちゃんと質問に答えてくれた。
その表情は言葉からわかるように何処かつまらなさそうだ。
元居たお嬢様学園でアリスさんはアリアを目立たせるために陰になる事を選んでいた。
大人しくヒッソリと隅にいる学園生活はとてもつまらなかった事だろう。
目的は違えど、同じ事をしていた俺にはよくわかる。
そんな学園生活をしていて楽しい思い出があるはずがないんだ。
「ですよね、だったらこれから楽しい思い出をたくさん作りませんか?」
「えっ……?」
『いったい何を言っているんだ?』と尋ねたそうにアリスさんが俺の顔を見つめてくる。
話の脈略から俺の考えが読みとれないのだろう。
「一度きりしかない学園生活――俺はアニメや漫画の世界を見て、楽しそうな学園生活にいつも憧れていました。だけどみんなと関わる事を恐れ、ヒッソリと目立たないようにする事しか出来なかったです。しかし今は、ボッチだったはずの俺の周りにも人が集まるようになり、色々な事がありながら前向きになる事が出来ました。その大部分としてはアリスさんがいたおかげです」
アリスさんがいなければ中学時代に俺は完全に道を踏み外していたかもしれない。
アリスさんがいなければネット上で騒がれるほどのプログラミング知識を得る事は出来なかった。
アリスさんがいなければ龍と知り合う事もなかった。
彼女がいたおかげで、今の俺は前向きになれているんだ。
「アリスがいなくても、君はいずれ立ち直っていたよ」
アリスさんは何処か気恥ずかしそうにしながら俺の言葉をやんわり否定する。
きっとこれは彼女の本心なのだろう。
俺の立ち直りについて彼女は自分の手柄だと思っていないからな。
だけど今俺が言った事は全て本心だ。
アリスさんが中学時代から支えてくれたおかげで俺は立ち直る事が出来た。
「アリスさんがどう思われているかわかりませんが、俺はあなたのおかげで立ち直れたと思っています。ですから本当にありがとうございます」
「…………そういうのはいいから……何が言いたいの……?」
俺がお礼を言うと、アリスさんはプイっと顔を背けてしまった。
これは照れて顔を背けたんだなという事は俺にもわかった。
だから気にせずに彼女の質問に答える事にする。
「俺はこれから先、思い出に残せる楽しい学園生活を送りたいと思っています。そしてそれは、アリスさんと一緒に送りたいと思っているんですよ」
我ながら恥ずかしい事を言ってると自覚しながらも俺は正直に打ち明ける。
多分今日の事を後で思い返すと恥ずかしさから穴に入りたい気分になるだろう。
今日の事は記憶の奥底に封印しておく事にした。
「えっ、それって……」
「はい。折角同級生なんですから、恩人であるあなたと楽しい思い出を残したいんです」
バッとこちらを振り返ったアリスさんに頷いて、俺は彼女の言葉の続きを奪う。
楽しい思い出を残すなら仲のいい人たちと残したいと思うものだ。
そして俺の場合は恩人であるアリスさんは必要不可欠だった。
その思いをアリスさんには伝えたつもりだ。
しかし――
「…………」
――当の本人には凄く冷たい目で睨まれてしまった。
「えっと、どうしました……?」
ジッと白い目で見つめられてしまい、俺は恐る恐る尋ねてみる。
おかしいな、別に怒らせるような事は言っていないはずなのに……。
「別に」
「いや、でも、何か怒ってますよね?」
怒ってなければそんな白い目で見つめてこないはずだ。
態度だって何処か拗ねているように見えるし。
「別に――ただ、カイの処分をどうしようか考えてただけ」
「――っ!?」
やっぱりこの人めっちゃ怒ってる!
処分って俺をどうするつもりなんだ!?
「いやいやいやいや! 急にどうしたんですか!?」
とりあえず処分なんてされたくない俺は慌てて理由を聞いてみる。
しかし、プイっと顔を背けられてしまった。
「どうもしない。ただ、カイを処分したい気分なだけ」
「いや、そんな気分的な問題で処分されたらかなわないんですけど!?」
俺は体の痛みや疲れなどすっかり忘れて反論する。
本気で処分などされない事はわかっているが、アリスさんの場合だと変な罰を与えられる可能性があった。
この人おしおきと称しながら平気で罰を与えてくる人だからな。
「はぁ……もういい。それで、話の続きは?」
挙句、なぜか大きな溜息をつかれてしまった。
呆れられてしまっている理由がわからないが、このまま話を続けても俺の分が悪いのは明らかなため話を戻す事にする。
「俺は自分だけでなく、アリスさんにも楽しい思い出を残してもらいたいと思っています。だけど、アリアの事が解決しない限りあなたは学園生活を楽しめませんよね?」
「それは――」
俺の言葉にアリスさんは言い淀む。
ここで肯定をすると俺の主張を認めてしまう事になる。
だけど否定したとしても内容から明らかに嘘をついている事がバレてしまう。
だから言い淀んでいるのだろう。
しかし、言い淀んだ時点で肯定を意味している事になる。
「アリアの改心を先延ばしにするという事は、それだけアリスさんと残せる思い出が減る事になります。だったら、今無理をしてでもここでアリアを改心させたいんですよ」
「そんな理由で体を壊すリスクを取るなんて――」
「俺にとっては大切な事なんです。それに学生時代の思い出は一生の思い出になると聞きます。あなたの大切な妹にも楽しい学園生活の思い出を残させたいと思いませんか?」
本当に恥ずかしい事ばかり口走っているが、俺は彼女に効果が大きい言葉を選んでぶつける。
アリアの事がもっとも大切な彼女にとって最後の言葉は胸に引っ掛かったはずだ。
アリスさんは目を閉じて一人考え始める。
彼女が長考の素振りを見せるのは初めてな気がするが、俺は黙って彼女の答えを待つ事にした。
「――アリスは、それでもカイに体を壊してほしくない」
数十秒後に目を開けたアリスさんが出した答えは、やはり最初と変わらないものだった。
さすがに漫画のようにあっさりと納得はしてくれないか。
「今の状況だと体を壊す可能性が高いというだけで、確定しているわけじゃないですよね?」
認めてもらえなかった事で、今度は元々話の中心だった体を壊す事に焦点を戻す。
彼女が長考したという事は迷いが生じた証。
意志が固まっていた最初とは違い、迷いが生じている彼女ならこちらから切り崩せる可能性がある。
「うん、確定ではない。アリスは神じゃないから予想が外れる事もある。だけど――九割方、体を壊す。疲労によって意識が散漫となり、日常生活で事故に巻き込まれる可能性。集中力が欠けた状態で行った事により、特訓中に思わぬ大怪我をする可能性。何も体を壊すのは疲労だけじゃないんだよ。今の君はとても危険な状態」
そうか、俺は疲労によって体を壊すという事だけを言われているつもりだったが、アリスさんの言う通り集中力の欠如によって別の要因で体を壊す事は十分にありえる。
彼女はそこまで視野に入れて俺を止めていたのか。
アリスさんが他に挙げた要因に反論するなら、登下校や買い物に行く時はいつも桜ちゃんが傍に居る事や、学園では雲母が傍に居てくれる事を挙げればいいのだろう。
だけどそれは、他の子に迷惑を掛ける事や危険に巻き込む事を意味する。
俺がそれを許さない事を理解していての忠告なのだ。
「だったら移動手段にはタクシーを使います。学園でも必要がなければ席から立たないようにします」
「特訓は?」
「特訓に関しては集中力が散漫しているとなればマリアさんに叱責されて止められるでしょう。家に居る時はどうせ寝ていますから危険もほとんどありません。それでも駄目ですか?」
「…………」
アリスさんは俺の言葉を聞いてまた考え始める。
今は何を考えているのかよくわからない。
俺をどう止めるか考えているのか、それとも認めるかどうかの判断をしているのか――わからないが、今のうちに彼女が言ってきそうなケースを予想し、それに反論する言葉を考えておこう。
「――カイ」
五分ほど経った頃、考えをまとめたアリスさんが俺の目を真っ直ぐ見つめてきた。
さて、いったい何を言ってくるだろうか。
何を言われても反論するだけの言葉は用意したつもりだ。
「はい」
「一つ、条件がある」
「……特訓を続ける事を認めてくれるという事ですか?」
「アリスの条件を呑むなら」
どうやら条件を呑めば認めてくれるらしい。
思ったよりもあっさりと認められる可能性が出てきた事に少し驚くが、これは提示される条件のほうに難があると思ったほうがいいだろう。
とりあえずは聞いてみてからの判断だ。
「その条件とは?」
「アリスの家に泊まる事」
「……は?」
思わぬ条件に俺は首を傾げてしまう。
彼女の真意が全くわからなかった。
「アリスの家と言ってもアリスやアリアが住んでいる家じゃない。トレーニング場の近くにあるアリスが所有している家に泊ってもらう。期間はアリアとの決着まで」
俺が言葉を呑み込めていないのにアリスさんは知らん顔して話を進める。
これを呑まないなら特訓を認めないという意思表示なのかもしれない。
「ま、待ってください。どうしてアリスさんの家に泊まる必要があるんですか? 確かに東京からわざわざ俺の家に帰るくらいなら近くの家に泊めてもらうほうが休める時間は増えます。しかし、たった一時間くらいの話でしょ? しかも朝学園への登校の事を考えるとあまり意味ない気がします」
全く一緒ではないが、トレーニング場から俺の家に帰るまで時間がかかるように、トレーニング場から学園までの移動も時間がかかる。
なんせ俺の通う学園があるのは東京ではなく俺の家の近くだからな。
だからトレーニング場から帰る時間が短縮出来て休める時間が増えたとしても、朝早起きをして移動をしなければいけないのなら意味がないという事だ。
「朝はニコニコ毒舌に車で送ってもらうからその間に寝ていればいい。さすがに学園内まで車だとアリアに見つかる恐れがあるけど、ニコニコ毒舌なら誰にも見つからないように学園の近くでカイをおろす事が出来る。そしたら朝歩いて登校するよりも休めるよね?」
「いや、アリスさんたちって今は青木先生が運転する車で来てるんですよね? 青木先生が別に動けばアリアが怪しみませんか?」
「大丈夫、今日ニコニコ毒舌とアリアを喧嘩させて、アリアから別の運転手に変えるように言わせるから」
この人、やっぱりやると決めたら容赦がない。
しかも平然とやってのけてしまうのだから本当に怖い人だ。
「でも、効果はそれほどだと思いますが……」
「アリスの家に泊まるようにしたいのは別の理由。酸素カプセルや腕利きのマッサージ師などを手配するから、特訓が終わり次第回復に努めるようにする。そうすれば体を壊すリスクがかなり下がるはず」
「いやいや! アリスさん俺一人のためにいったいどれだけ金を使うつもりなんですか!? 今までだって馬鹿にならない額を費やしてきてるでしょ!?」
平然と酸素カプセルやマッサージ師を用意すると言われ、俺は慌てて彼女を止めに入る。
それに今ふと気付いたが、トレーニング場の近くにアリスさんの家があるという話は聞いた事がない。
車で彼女の家からトレーニング場までそれほどかからないのだから、わざわざ家を購入しておく必要もないはずだ。
つまり、俺一人を休ませるためだけに家を購入しようとしている事になる。
さすがにそれを看過出来るほど俺の心臓は強くない。
「気にしなくていい。アリスが稼いでるお金だから」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
確かにアリスさんの言う通り、アリスさんが普段からいろいろな物に使っているお金は彼女が稼いだ金だ。
以前に思い切って聞いた事だが、この人は平等院システムズを退いた後も色々な事に手を出してお金を稼いでいたらしい。
理由は『何か会った時にお金がなければアリアを守る事が出来ないから』だそうだ。
元々大量の資金を持っていたからこそ出来る事ではあるが、この人の金稼ぎの才能は化け物じみている。
最近では株も金稼ぎの手段に加わったとか。
普通なら金稼ぎとしては最初ら辺に手を付けそうなものだが、アリスさんはなんとなく手を出すのが嫌だったらしい。
それなのに手を出すようになったのは――まぁ俺たちが原因なんだろうな。
しかし、いくら彼女が稼いだ金とはいえ俺のために多額を費やすのはおかしい。
使われているほうの身としては罪悪感でいっぱいになるのだ。
「お金を持っている人間が使わないと経済は回らない」
「こういう時だけ社会人になるのはやめてください!」
アリスさんが言ってる事は正しいが、絶対この人そんな事考えてない。
ただ都合よく言葉を使っただけだ。
「アリスが使いたくて使うんだから問題ない。カイは遠慮せず受け入れればいい」
「その考え、悪い男や駄目男に貢ぐ女の人みたいですよ……?」
「ふふ、アリスが変な男に騙されるような女に見える?」
無駄だろうな、と思いながら注意すると笑顔で返されてしまった。
しかし、どうやら俺は地雷を踏んでしまったようだ。
表情は笑っているように見えるアリスさんだが、目は笑っていなかった。
しかも『ふふ』って笑い方は普段なら絶対にしないから、俺は言ってはならない事を言ってしまったのだろう。
……どうして俺の周りには笑顔が怖い人ばかりなんだ……。
もう人生で何度目かわからない恐怖の笑顔を目の当たりにして苦笑いが出てきた。
「思いませんけど、それでも――」
「この条件を呑まないなら特訓は絶対に続けさせない」
俺の言葉はアリスさんの強い言葉に遮られてしまった。
これは実に困った状況だ。
アリスさんから許しが得られない以上、マリアさんと青木先生の協力は絶対に得られない。
青木先生はアリスさん第一で、この人の言う事なら全て聞く。
マリアさんに関してもアリスさんがストップを掛けるなら彼女の言葉を信じるだろう。
自分の娘の有能さを信じ切っている感じだったからな。
だからアリスさんが駄目と言ってしまえば絶対に俺に協力してくれない。
……仕方ない、か……。
「わかりました、お言葉に甘えさせて頂きます」
もうこうなってしまえば俺が選べる選択肢はこれしかなかった。
お金に関しては到底返せるような額ではないが、卒業するまでの間アリスさんからの依頼を全て引き受ける事で穴埋めをしていこう。
「うん、それでいい。今日はちびっこ天使とかに何も伝えてないからこのまま家に帰って、明日からはアリスの家にお泊り」
「はい、わかりました。――それじゃあそろそろ俺は家に入りますね、おやすみなさい」
いつまでも家の前に車が停まっていればご近所さんの迷惑になる。
だから俺は部屋に入ろうとしたのだが――。
「――カイ、アリスが学園生活を楽しむには一つ必要なものがある」
車を降りたところでアリスさんが先程の話を掘り返してきた。
これは流す事が出来ないものだ。
「それはなんですか?」
俺はアリスさんのほうを振り返って彼女の目を見つめる。
アリスさんは一瞬だけ俺から目を逸らしたが、すぐにこちらに目を合わせてきた。
一瞬視線が逸れた理由はなんだろう?
言い辛い内容なのだろうか?
少し珍しい様子を見せたアリスさんに疑問を抱きながら俺はアリスさんの言葉を待つ。
しかしアリスさんはなぜか中々喋ろうとせず、二人で見つめ合う形になってしまう。
それから少しして、意を決したようにアリスさんがゆっくりと口を開いた。
「それは――カイが、アリスの彼氏になってくれる事」
「えっ!?」
突如放り込まれた爆弾に俺は変な声を出してしまった。
えっ、アリスさんの彼氏!?
それって告白って事か!?
アリスさんは俺の事が男として好きだったという事!?
いやでも、今までそんな素振り一つもなかったよな!?
わずか一秒の間に俺の頭には様々な言葉が飛び交ってしまう。
それほど、彼女が言ってきた言葉は俺を混乱の渦へと引き込んでいた。
「――って言ったらどうする?」
「えっ……?」
「アリスがこんな事言ったらカイはどんな反応をするのか、それを見てみたかっただけ」
俺が一人焦っていると、アリスさんはニコッと笑いながら悪気もなく冗談だと言ってきた。
どうやら俺はからかわれていただけのようだ。
「なんだ、冗談ですか……。驚くような事を聞かないでくださいよ……」
「なんだか生意気だったからからかってみた。ごめん」
「生意気って……。まぁ、いいですけど――いや、よくはないな。でも別に怒ってはいませんよ。それよりもアリスさんってそんな冗談も言うんですね」
正直冗談で告白なんてされたらかなわないためあまりよくはないが、相手はアリスさんなため怒るほどの内容でもない。
アリスさんには多くの借りがあるのだから少しばかりのいたずらは流してあげるべきだろう。
むしろ、本当によくこんな冗談をアリスさんが言ったものだ。
そちらのほうが気になってしまう。
「……そうだね。それじゃあ、もうアリスは帰る。カイも体を壊さないように早く寝る事」
ん?
なんだろう、今の間は……。
でも俺を見るアリスさんはいつも通りの表情だし、気のせいなのだろうか……?
「どうしたの?」
「あ、いえ……なんでもないです。それではおやすみなさい」
「うん、おやすみ」
アリスさんに異変が見られなかった俺は、気のせいなのだと結論付けて家へと入るのだった。
「――なんであんな事言ったんだろう……」
アリスさんの、その小さな呟きには気付きもせずに。
今回凄く長くてごめんなさい(@_@;)
楽しんで読んで頂けると嬉しいです!