第187話「信じてるから」
「――ぐはっ」
お腹を殴打されたカイが、綺麗に宙へと舞う。
人はこれほど簡単に空を飛べるんだって若干現実逃避しながら、アリスは目を瞑った。
訓練が始まって一時間ほど経過したけど、ただひたすらママの手によってカイが宙を舞っている。
元から予想が出来た結果ではあるけど、カイは何も出来ていない。
今も地面に蹲っているカイは、どうにか立ち上がろうとしたけど、とうとう力尽きて倒れこんでしまった。
どうやら意識を失ってしまったみたい。
それを見て、ママが大きな溜息をつく。
カイに失望している事がわかる。
「もういい。誰かこいつを部屋まで運んでやれ」
イラつきを隠せないまま、執事へとカイを預ける。
アリスはすぐにでもカイの傍に駆け寄りたかったけど、やらないといけない事が出来てしまった。
カイが運ばれる姿を横目に見ながら、ママへと近寄る。
「……怒ってるよね?」
アリスが声を掛けると、ママはこっちを向いた。
額には青筋が浮かんでいて、目は細められている。
機嫌が悪い事がよくわかる。
「全く話にならないな。これではやるだけ時間の無駄だ」
「うん、わかってる。でも、見捨てないでほしい。……センスはあるでしょ?」
どうにかママの機嫌を損ねないよう気を付けながら、訓練を打ち切られないよう話を持ち掛ける。
ここまでの流れは全て想定していた通りだし、訓練が上手くいかない事もわかっていた。
でも、カイに責任はないし、今回の結果はカイの長所がもたらしてしまったもの。
だからアリスはカイの事を責めないし、尻拭いをする。
「センスは確かにある。それに喧嘩慣れもしているのだろう。我流の割りには動きに無駄が少ないし、反応もいい」
ただ殴られて終わっただけなのに、カイのセンスに関してはママも認めてるみたい。
むしろそのせいでイライラが増してる部分がある。
「――だからこそ、ムカつく。あれだけの素質を持っていながら、あいつは武術を舐めている」
ママはメイドから渡されたコップに入ってる水を飲み干すと、イラつきをぶつけるように大きく音を立てて置いた。
ママがものに当たるのは珍しい。
それだけ怒りが込み上げてるんだと思う。
「舐めてるわけじゃないよ。ただ、あの子は優しいから」
「自信を付けさせるためにわざと打ち込める隙を作ってやったのに、拳を打ち込む瞬間に止めた。しかも何度もだ。それは女を殴る事が出来ない優しさ、とお前は言いたいのかもしれないが、違うな。武術で向き合った以上男も女も関係ない。むしろ女だからって殴るのをやめるのは、優しさじゃなく失礼って言うんだよ。あいつは女も武術も舐めている」
ママが言ってる事は正しい。
さっきの訓練でママに打ち込めるチャンスは何度も有ったのに、カイは殴る事をためらってしまった。
それは武術で向き合ってる以上、相手を侮辱している行為に値する。
もちろんカイはママを侮辱しようとしたわけではない。
相手を傷つける事を恐れただけ。
もしかしたら、前に自分が暴力事件を起こした事を引きずっている可能性もあるけど、大きな要素はママが女だったからだと思う。
カイみたいに優しい子は、女を殴る事が出来ない。
そんな事、最初からわかってた。
だから、ニコニコ毒舌じゃなくてママに指導を頼んだ部分もある。
アリアに勝つためには仕上げが間に合わないという要素もあったけど、カイが先程の行為をすれば、ニコニコ毒舌は本気で怒っただろうから。
ニコニコ毒舌は見た目に反して凄く腹黒。
そして、見下される事をとても嫌う。
もし女だから手加減されたとなると、きっとカイは病院送りにされていたと思う。
ママだからこそ、今後に影響が出ないところでやめてくれた。
「うん、あの子にはアリスが言っておく。だから、もう一度チャンスを与えてほしい。お願いします」
ママに対してアリスは頭を下げてお願いする。
そのアリスの様子を見て、ママが驚いているのは雰囲気からわかった。
「お前が人に頭を下げるとはな……。どうしてそこまであいつに拘る? 正直お前なら、あいつの手を借りずにどうとでも出来るだろ? むしろ、今回はアリアを傷付ける事になる。今までアリア絶対主義だったお前が、どうしてアリアを傷つけてまであいつの味方をするんだ?」
不思議でならないといった様子で、ママが質問をしてきた。
幼い頃のアリスを知っているからこその疑問。
アリアがアリスの全てだった時の話をママはしてる。
「このままだと、アリアは人として戻れないところに行きついてしまうから」
「嘘をつくな。そうならないようにお前なら制御出来るはずだ」
ママは溜息をつきながら、強い眼差しでアリスを見てきた。
これ以上の嘘は許さないと言われてるのがわかる。
別に嘘をついたわけじゃない。
将来アリアがアリスの言う事を聞かなくなる可能性は十分にある。
ただし、そうなったとしても力ずくで抑え込む事なら出来る。
ママはそう言いたいんだと思う。
でもそれは、アリスが望むものではない。
アリアにはのびのびと生きてほしい。
無理矢理抑えつけられる生活がどれだけ窮屈か、知ってるからこそアリスはそう願う。
抑えつけずに好きにさせるという事は、アリアが考えた通りに動いてしまうという事。
今のままだと、人として道を外してしまうのは目に見えてる。
そうならないように、考えを改めさせる必要がある。
それが出来るのは、カイだけだとアリスは思ってる。
正面からあの子と向き合えるだけでなく、アリスが信頼出来る唯一の人間だから。
アリスだと、アリアは向き合おうとせずに逃げて、無理矢理納得してしまう。
あの子が面と向かって話せる人間の言葉じゃないと、きっと心には届かない。
ましてや、洗脳のように幼い頃から教え込まれた考えを改めさせるには、言葉が心に届かないと不可能。
だからカイに任せる事にしてる。
でも、それだけじゃない。
カイに力を貸すのは別の理由がある。
「カイはアリスのために精一杯頑張ってくれてる。それは知り合った頃からずっと。アリスが言う事なら間違いない、と絶対の信頼をしてついて来てくれてる。そんな子が頑張ってくれてるのに、見捨てられるわけがないし、やってる事が間違ってると頭こなしに抑え込む事なんて出来るわけないよね? それに、アリスはその信頼に応える必要がある。だからカイが頑張ってくれてる以上、どんな結末が待っていてもアリスは構わない」
「それが、アリアに嫌われるという未来が待っていても、か?」
アリスはコクリと頷く。
カイは気が付いていないのかもしれないけど、アリアだっていつまでもは騙され続けない。
きっと今も腑に落ちていない事はあるはず。
それでもアリアがアリスの事を疑わないのは、アリスが裏切るわけがないと信じ切っているから。
けれど、全てが片付く頃にはアリアは気が付く。
既にアリスに裏切られていた事を。
上手くやらなければ、アリスとアリアの関係は終わってしまう。
ママが言いたいのは、そういう事。
「覚悟は出来てる。どんな未来が待ってても、アリスは後悔しない。だから、カイにあれを教えてあげて」
殴る、蹴るをしなくても相手を倒せる武術。
それをママは身に着けてる。
女を殴れないカイでも、それを身に着ける事さえ出来れば、きっとアリアに勝てる。
身に着けられるかどうかは、カイ次第だけど。
そしてその武術を使ってしまえば、アリアは絶対に裏切りに気が付く。
だってその武術は、ママとニコニコ毒舌しか使えないものだから。
「はぁ……わかったよ。お前がそこまで言うのなら、もう一度だけチャンスをやる。さっきまでの無礼も忘れてやるよ」
ママは溜息をつきながらも、納得してくれた。
上手く説得出来た事に、アリスは安堵する。
「ありがと、ママ」
アリスは笑顔でママにお礼を言った。
やっぱりママは優しい。
急な頼みにも関わらずわざわざアメリカから日本に来てくれただけじゃなく、気に入らない事も呑み込んでくれてるから。
滅多に会う事が出来なくても、アリスはママの事が大好きだよ。
――それにね、ママ。
失敗すれば全てが終わってしまうかもしれないけど、アリスは何も心配してないよ。
だってアリスは、カイの事を信じてるから。
口には出さずに心の中でだけママに語り掛けながら、アリスはカイが運ばれた部屋へと向かうのだった。