第174話「好きですよ」
「雲母を戻したくないという考えはわかりました。ですが、呑んでいただけない以上、今回の話はなかった事にして頂きます」
俺はジッと西条社長の目を見る。
絶対に退く気はない。
その事を無言でアピールする。
「ふむ……どうして、君はそこまで拘る? 君は雲母の事が好きなのか?」
――ガタッ。
西条社長が問い掛けてきた瞬間、扉のほうで音がした。
反射的にそちらを見てしまう。
「あぁ、気にしないでくれ。家の者の誰かが通った時に当たってしまったのだろう。それよりも、質問の答えを聞かせてくれ」
……まぁ、何か荷物を持ってたりすれば、そういう事もありえるか……。
俺は西条社長の言葉に納得し、質問に答える事にする。
とはいえ、この質問は予想していた。
雲母を家に戻してほしいなどの話をすれば、雲母に対する気持ちを聞かれるのは当たり前の事だろう。
当然答えも用意している。
「えぇ、好きですよ」
――ガタッ!
今度はさっきよりも更に大きな音が扉のほうからした。
どうやらこの屋敷には、随分と不注意なメイドか執事がいるようだな。
「それは、恋愛感情でという意味かね?」
俺の顔を見据える西条社長。
少し、凄みが増した気がする。
『娘さんをください』と相手の父親に言いに行く時はこんな感じなのかと思いながらも、俺は自分の言葉を訂正する。
「いえ、違います。友達としての意味です」
――ガンッ!
おいおい!
今の音はさすがにおかしくないか!?
完全に殴ったか、蹴ったかのような音だったぞ!?
「ふふ、ごめんなさいね」
扉のほうをジッと見ていると、雲母のお母さんが微笑んで席を立った。
そしてそのまま扉のほうへと向かい、外に出ていく。
注意に行ったのだろうか?
いったいどんな使用人を雇っているんだ、この家は……。
「友達として好きだから、自分の人生を使うのか? それだけでは納得をするのは難しいな。本当は、雲母を西条家に戻す事によって、社長の椅子を狙っているのではないかね?」
外の様子を全く気にしていないのか、西条社長は一切俺から視線を外さない。
ずっと、俺の事を観察している感じだ。
俺は自分が集中を切らしていた事に気付き、一度目を閉じて深呼吸をする。
気持ちを入れ替えて、もう一度西条社長の目を見た。
「正直、西条財閥社長の椅子には一切興味がありません」
「ほぅ、大金を手に入れるチャンスを手放すというのかね?」
「確かにあなたのような立場の人間と僕とでは、稼げる金額は月とスッポンでしょう。しかし、生活に苦労しない程度の金なら手に入ると思っています。だから私生活を捨ててまで、社長になりたいなんて思いませんよ」
嘘をついたりや取り繕う事など一切せず、ありのままの考えを話した。
今まで父さんのおかげで金には苦労していないからか、俺はそこまで金に執着がない。
欲しいものを我慢させられる事はあったといえども、逆にいえばその程度だ。
金よりも時間がほしいとさえ思う。
プログラムを作る事に関しても、確かに最初は欲しいものを買うために始めたが、今は趣味でやっているだけだ。
そんな俺にとっては、凄く忙しいであろう社長の椅子などこっちから願い下げだ。
「しかし、西条財閥に入るという事は、君にはゆくゆく重要なポジションについてもらう可能性が高い。その事は理解しているという考えでいいのかね?」
西条財閥のような大手企業の重要なポジションに着けば、業務に追われ、私生活の時間はあまりないぞという事だろう。
こんな事をわざわざ言ってくるという事は、もしかしたら俺の発言に矛盾に近いものを感じたのかもしれない。
「わかっています。ただ、私が今回の話を持ち掛けたのは、あくまで雲母を戻してほしいという目的があるからであって、お金のためではありません。俺にとって今回の事は私生活よりも価値がある――それだけの話です」
「ふむ……」
室内がシーンと静かになる。
西条社長が右手を口に当てて長考を始めたからだ。
ここでは急かさないほうがいいと判断し、俺は黙って西条社長の次の言葉を待つ。
「中途半端な実力しかない雲母を戻したとすれば、後々苦労するのは我々――強いていえば、君もだ。それも理解しているのか?」
五分くらいたったのだろうか?
長考を終えた西条社長は、ゆっくりと口を開いて俺に確認をしてきた。
おそらく苦労するというのは、今後西条財閥や紫之宮財閥を相手にする時、雲母は頼りにならないという事なのだろう。
この男がそう考えるのも無理はない。
むしろ現段階で戻して雲母が頼りになるのであれば、既に戻していただろう。
ただ、それは間違いだ。
その事を俺はこの男に教える必要がある。
「もしそのような事態になれば、私があいつの分までカバーします。しかし――それは杞憂でしょう。雲母は、十分社長としてやっていける奴だと私は思っています」
「ほぅ……?」
興味深げに西条社長が俺の目を見る。
俺の考えが知りたいのだろう。
ここで俺の考えをしっかり説明する必要がある。
雲母をこのままにするのと、戻す事を天秤にかけさせ、どちらがいいかを理解させるために。
そのために俺は冗談として西条財閥を狙うと宣言し、雲母をこのままにした時のデメリットを西条社長に印象付けたのだ。
「先程あなたのやり方を私は否定しましたが、雲母に実力が付いているのも事実です。少なくとも、アリアと同等くらいの力はあると私は思っています。――いや、底辺から這い上がった強い心を持ち、他人の事を思いやれる今のあいつなら、上に立つ人間としてアリアに勝っていると思います。それでもあいつに任せるのは心配というのであれば、私があいつの足りない分をカバーする――ただそれだけの話です」
俺が言い終えると、西条社長はまた黙り込んでしまった。
しかし、今度の沈黙が破れるのは早かった。
「――おみごと」
なぜか西条社長はパンパンパンっと手を叩きながら、そんな事を言ってきた。
その表情は、最初に見た優しいものへと戻っていた。