遺言
俺はひとり、カッターを手に持っている。
周りには、誰もいない。
目の前には、何もない。
ただ、無限の宙がある。
何もない、本当の無。
俺自身がこれまで信じていたものは、何もかもに裏切られた。
だからこそ、俺は最高の場所で、人生最後、最大の自己主張をする。
ビルの頂上に、俺はいる。
下には、人が集まってきている。
俺は、誰も傷つける気はない。
ただ、何もしないよりもする方がいいと思ったからだ。
後ろから人の声が聞こえる。
だが、おれの耳には入らない。
俺は告げた。
「名は、すでに捨てた」
俺は続ける。
「何もかも裏切られた。この世界、この国、この俺自身にも。だからこそ、俺は最後にわがままをさせてもらう」
その言葉は、相手に届く前に宙へと消えた。
無限に広がる宙。
俺を受け入れる唯一の存在。
絶対的なものなどないこの世界は、宙だけを拠り所として生きている。
だからこそ、俺はその存在に身を寄せる。
下には人が集まっている。
その数はどれほどいるんだ。
どれだけ幸福な人がいるんだろうか。
俺は自身に問う。
「この人生幸せだったか?」
すでに周りの音は聞こえない。
ゆったりとする時。
宙からは、天使と悪魔が見ている。
ただ、じっと見ている。
俺は右腕を宙に差し出す。
この幸せなき人生に、幸せな最期など期待できようか。
いや、不幸せなる人には、不幸せな最期しかない。
人には、常に定められた運命が存在する。
俺は、そして自身に答える。
「否、決して幸せとは言えない」
俺は左腕をあげる。
生け贄とする右腕を、天使と悪魔に捧げるために。
我が人生、最大の主張をするために。
神もなく、天使もなく、悪魔もない。
あるのは、人としてのエゴと知りつつも。
右手首から滴り落ちる紅き雫は、有限の時間をかけて世界に広がる。
ここで流された血は、別のところで流されるはずだったもの。
周りのことは、すでに遠い時の彼方。
俺の周りには、別の時間軸が貫いている。
目の前にあるのは、無限の宙。
他には、何もない。
「我思ワザル、故ニ我ナシ」
俺の心が叫んでいる。
「我思ワザル、故ニ我ナシ」
俺の体が叫んでいる。
「我思ワザル、故ニ我ナシ」
天使が叫ぶ、悪魔も叫ぶ。
俺も叫ぶ。
「我思ワザル、故ニ我ナシ」
周りは虚無になり、すべては一つに融ける。
何もない。
あるのは空っぽの心。
無限に広がる宙からは、天使と悪魔が見ている。
俺は自身に問う。
「俺は、死んでもいいのだろうか」
俺は自身に答えない。
天使と悪魔は、こちらを見て微笑んだ。
答えはない。
あるのは、無限の宙だ。
他には何もない。
世界は震えとともに変わる。
一つの時間軸は、他の時間軸と重なり、1つの世界を作り出す。
滴る落ちる紅き血は、ゆったりと生き急いでいる。
俺は自身に問う。
「後戻りは、できるか」
天使と悪魔は、こちらを見ている。
無限に広がる宙から見ている。
俺は、彼らに問う。
「俺は、後戻りできるだろうか」
天使と悪魔は、一つに融け合う。
「否、すでに時は経った」
俺は自身に答える。
「否、すでに後戻りはできない」
あるのは虚無の空間。
天使とも悪魔ともわからない、その存在が俺に問う。
「主は、今幸せか?」
俺は答える。
「否、この世に未練なしというだけ」
存在は問う。
「ならば、主は、今不幸せか」
俺は、新天地への一歩を歩み、答える。
「否、この世に未練なしというだけ」
時が止まりし時、存在は俺へと近づく。
「ならばその思い、我が力により果たすべき」
存在は、俺のくちびるに手をかざす。
「主よ。今、真に問う。この世に誠に未練無きか?」
俺は答える。
「その思い、真なり。この世に未練などなし」
存在は俺に言う。
「ならば、主よ。我が掌へ。今が幸せあらざれば、今より幸せになるべし」
時は加速する。
俺は、自然と建物より落ちている。
その姿を見、存在を見、無限の宙を見る。
「幸せ、不幸せ。今の俺には関係ない」
俺は存在に言う。
「時とはいかなるものか」
「時とは即ち世界なり。世界即ち時なり」
存在は続ける。
「永久に続く時とは即ち無限の宙なり。無限の宙とは即ち世界なり」
「ならば問う。俺とは何ぞや」
存在は答えざりき。ただ一言。
「己の心を読め。即ち答えなり」
皆さんは、死にたくなった場合、身近な人に相談するか、"http://www1.odn.ne.jp/~ceq16010/hp/top.htm"などにご相談してください。




